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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

御本尊って何でしょう

御本尊って何でしょう




ことはそんな簡単な問題ではありません
何せ御本尊ってのは
一つの宗教
一つの宗旨の
まさに根幹。





学会はね、昔から日蓮正宗
教義を基本にしてきたんです
弘安2年10月12日御建立の御本尊
これが宗旨の根幹であると



でね、これが
「どーも嘘なんじゃないの!」
ってことがだんだん
バレてきちゃったのね




日蓮正宗としては
これを否定しちゃったら
もう宗旨が倒れちゃうので
これだけは否定できないと





で、学会はどーすんだろと
学会は今まで根本としてきた
「弘安2年の御本尊」を
授持の対象とはしないんだそーです




まあ、学会は学会だから別にいいんだけど
ただ、今までの古参の学会員さんには
なんて説明するのかね



言ってしまうと
創価学会常住の御本尊は
日蓮正宗の水谷日昇さんが書いたもの
創価学会の会員さんのご自宅の御本尊は
日蓮正宗第26世の日寛が書いたもの
だから根本は
弘安2年の御本尊になっちゃうんだよね
この矛盾どーするんだろ
だって御本尊の表面には
「奉書写之」って
書いてあるんだよ
「之」って何のことさ
弘安2年の御本尊のことでしょ
(少なくとも日蓮正宗では
そういう意味になるはずでしょ)
「弘安2年の御本尊様を
書き写しました」
って書いてあるんだよね
だって日蓮正宗では
それが根本なんだからさ





創価大学の宮田幸一先生は
さらに踏み込んで
別に身延の御本尊拝んでも
構わないよ〜
功徳はそれはそれであるよ〜って
言った



まあね
そりゃ
何を言ってもいいんだけど
学会は単一の宗教法人だからさ




ただもう少し
周りの教義を固めてからが
よかったね
これだと
もうなんでもありだもの




もちろんね
「形に囚われた御本尊観ではなく」
「私たちは久遠元初の法を根本に」
という
よく創価学会員さんにありがちな
御本尊観はわかるんだけど




それだと
文証も何もなくなっちゃいますよ〜
何でもありになっちゃいますよ〜
身延から御本尊買ってきて
家で拝んでもOKってことになる
何も創価学会に御本尊もらわなくても
別にいいってことになる
だって御本尊は己心の胸中にあるんでしょ
私、学生時代、宗門問題で
御本尊もらえない数年間過ごしましたし
壁や東の空に祈るのも抵抗ないです☆





ね?
だからさ〜
そーゆーことをさ〜
教学で固めないと
ダメでしょ〜
創価学会員の皆さん、
精神を病んじゃいますよ




だから私は日蓮正宗に共感はしないんだけど
日蓮正宗の方が教義的には一貫している
創価学会で悩んだ人が日蓮正宗に行ったら
サッパリするなんてきっとあるかもね




私はこのへんの問題を解決するには
総勘文抄
そして
当体義抄
からもう一度、
当体蓮華と譬喩蓮華の解釈
を考えていかないといけないと
考えています








ただ私は
自分が考えていることを
まだここで書きません
書いても
誰も読まないでしょうし(笑)





だいたい私の考えていることが
ただの勝手な我見だったら
どーにもならないでしょーし(笑)
我見にならない
保証なんてどこにもない





信頼できる方々に
いろいろ見てもらって
教学の基礎を固めて
それからでないと
教学ってちゃんとやらないと
怖いんです





教学って簡単に発表できないっすよね
そんな簡単にポンポン変えられるもんじゃない
創価学会の教学部の皆さんだって
そんな簡単にポンポン変えられるもんじゃない
少なくとも教学部の中で
喧喧諤諤の議論、戦わせているはずですよね






私の中では
御本尊の問題について
ある程度の解決ができています
でも
それは他の人にもそれでいいかというと
そーゆーわけじゃない





信仰って
自分の心の中に築いていくもの
そういうものですよね
だから築いてきました
ガタガタですけど(笑)
立派な信心じゃないっすけど







でもきれいな信心じゃなくたって
いいんです
自分の信心ならいいんだと
思うんだよね




誰かに言われてためらいもなく
選挙のFを頼みまくるのが信心じゃないし
御本尊について何も考えないのは
ただの盲信だし
ただ「池田先生についていこう」だなんて
人師・論師の釈も甚だしい
日蓮の仏法でも何でもないよね






自分の力で考えることを
いつから創価学会員は
やめてしまったんでしょうね





自分の力で考えましょうよ