気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

初座の御観念文について。





いつもみなさん、ありがとうございます。


今回は勤行の初座の御観念文のことを思い出してみたいと思います。


さて勤行というと、創価学会は昔は大石寺講中の一つでしたから、五座三座の勤行をしていました。今ではSGI方式というのでしょうか、方便品と自我偈一度のみに簡略化されて簡単になりました。


私が子どもの頃にやっていた初座の勤行での御観念文は以下のようなものでした。


「生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王等惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益法味倍増の御為に」


私が子どもの頃は既に池田会長の時代です。
ところが、それより前、戸田城聖会長の頃はこの観念文、少し違っていました。以下にそれを載せてみたいと思います。


「生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩等惣じて法華守護の諸天善神・諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益法味倍増の御為に」

戸田城聖講述『日蓮正宗方便品寿量品精解』より、精文館、昭和33年)



つまり戸田会長の頃の初座の勤行の御観念文には「天照大神」と「正八幡大菩薩」の二つが含まれていたんですね。
これらがいつのまにかなぜ削除されて、そのままになっていたのか、私にはよくわかりません。
確かに私は小さな子どもの頃から五座三座の勤行をしていましたが、初座で「天照大神」や「正八幡大菩薩」を観念文で唱えた記憶はありません。すでに私の時代でこれらは削除された御観念文を使っていた筈です。


もともと大石寺の教義に神道や富士山信仰があったのなら、この両者が御観念文に含まれていても何ら不自然ではないと思います。
私が非常に気になっているのは、これらが「いつ」「どのような理由で」削除されたのかということです。







本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて私は以前、大石寺法主浅間神社に書写本尊を奉納していた事実をブログで紹介したことがあります。


「神社に奉納された御本尊」

「複数の神社に存在する大石寺の本尊」


この中で大石寺33世日元書写本尊(静岡県沼津市浅間神社蔵)の向かって左脇に書かれている文字に今回は注目してみます。冒頭画像で赤くマークしたので見て頂きたいと思います。


ここに書かれているのは、

「本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」

という一文です。


浅間宮とは当然ながら浅間神社のことです。
そして浅間神社の祭神は「木花咲耶姫命」(コノハナサクヤヒメノミコト)です。
木花咲耶姫命天照大神の孫の瓊瓊杵尊ニニギノミコト)の妻で、富士山を神山とする浅間神社に祀られています。
その祭神・木花咲耶姫命が「本地久遠実成釈尊垂迹」であるとするなら、釈尊の生まれ変わりが木花咲耶姫命であることを大石寺法主が明確に本尊に書いて認めていることになります。


つまりこの頃の大石寺の教義には明確に神社との関係が存在し、天照大神等の諸神も本地久遠実成釈尊垂迹であるとする、神本仏迹説が普通に存在したということになります。


思うに、神社への参拝を禁止する現在の大石寺の教義は、昭和以降に創価学会の影響によって形成されたところが大きく、本来の大石寺はやはり神道浅間神社との関係が深かったのだろうと推測せざるを得ないと私は思います。



参考文献:
柳澤宏道『石山本尊の研究』はちす文庫、1997年。








通牒のこと。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は昭和18年6月25日に戸田城聖氏が会員に出した「通牒」についてです。
この「通牒」については多くの方がネットや書籍等で既に述べていまして、今更私がここで言うことでもないのですけど、ご存知ない方も多いようなので私がわかっていることだけを簡単に書いてみたいと思います。



まずこの「通牒」が出された背景について。


多くの方もご存知の通り、創価学会(当時は創価教育学会)初代会長の牧口常三郎は「神札」の受け取りを拒否したと言われています。
この経緯は当局の圧力が強まりつつあった昭和18年6月初旬、牧口常三郎氏と戸田城聖(当時は戸田城外)氏は、大石寺本山に呼び出され、「学会も『神札』を一応は受けるようにしてはどうか」と諭されました。この時に二人に言い渡した人物は渡辺慈海氏(当時内事部長)、同席していたのは大石寺62世鈴木日恭氏と59世堀日亨氏でした。


大石寺側としては神札を祀ることはできませんから、一応受けるだけ受けておいて、祀らずに置いておこうというスタンスだったようですが、牧口常三郎氏がこの時、神札を受けることさえも拒否したということは彼の宗教的な純潔さを示していると言えるかもしれません。


昭和18年6月、創価教育学会会員・陣野忠夫氏は近所の人を「折伏」しようとして、その人の子どもが亡くなったことを「仏罰」と決めつけました。怒った当人が警察に訴え、陣野氏は逮捕。激しい取り調べを受け、同会の罪状が作られる起点となりました。


昭和18年6月25日、戸田氏は当局の弾圧が身辺に及ぶのを回避するため、各支部長に宛て、「理事長・戸田城外」名で「通牒」を発することになります。これが冒頭の画像になります。
以下に書かれた内容を紹介します。


創価教育学会各理事      仝  支部長殿
理事長    戸田城外

通牒

時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員に於ては益々尽忠報国の念を強め、会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、高祖天照大神、高宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すること。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること

六月廿五日」


溝口敦氏は著作の中でこの「通牒」について「弾圧逃れのためのアリバイ」としています。それが事実であるかどうかはともかくとしても、この通牒を読む限り、創価教育学会が戦争に反対していたわけではないことは明瞭かと思います。


日亨氏は富士宗学要集の中で創価教育学会に対する弾圧の項で、昭和18年6月に関して「弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し」(富士宗学要集9-431ページ)と述べていまして、6月の大石寺との話し合いの後に成された「応急策」があったことを記録に残しています。その応急策こそ、まさにこの「通牒」であり、これ以外にその「応急策」にあたるものは存在しないと思います。


この「通牒」の出所ですが、これは稲葉伊之助氏の息子、稲葉壮氏の自宅に保管されていたところを発見されたものです。溝口氏は以下のように説明をしています。


今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない。」
(『妙観』平成4年5月15日付)


少し説明が必要になるかもしれません。
稲葉壮氏は稲葉伊之助氏の子息にあたります。
昭和18年7月6日、牧口常三郎戸田城聖、矢島周平、稲葉伊之助らが逮捕された際に、それぞれの家が特高警察による家宅捜索を受け、関係資料が押収されます。


それらの資料が返還されるのは戦後の昭和30年頃と言われます。
稲葉伊之助氏の娘(稲葉壮氏の姉)は、牧口常三郎の息子・洋三(戦死)に嫁いで縁戚関係がありました。その関係から稲葉壮氏は当局より稲葉伊之助の資料とともに牧口常三郎の押収資料も引き渡されることになります。


稲葉壮氏は当時会長になっていた戸田城聖と連絡をとり、資料の処置を相談したようです。結果として稲葉氏が保管する形となりました。


その後、昭和35年池田大作氏が会長に就任すると柏原ヤス氏を通じて、牧口関連の資料を創価学会に引き渡してほしい旨の連絡が入ります。この時に引き渡し漏れが生じたのか、あるいはもともと稲葉伊之助氏の資料に存在していたのかわかりませんが、ともかく「通牒」は長らく稲葉氏の自宅で保管されることになります。それが後年、溝口敦氏の調査でガリ版刷りの「通牒」の実物が少なくとも3通現存することが判明しました。


先述しましたように、この「通牒」を見れば、当時の創価教育学会がなんら戦争に反対もしておらず、「米英打倒」を「切望」していたことが文面から明確にわかります。
大石寺が神札を受ける判断をしたのは、当局の弾圧を回避するための選択だったのだろうと思います。その意味で、牧口氏の神札の拒否は彼の信仰がある意味で純粋だったことを示しているとも言えるでしょう。
しかしながら、それによって戦争になんら反対の意志を会として表明していなかった事実を覆い隠すなら、それは単なる歴史の改竄であり、歴史修正主義と変わらないように私には思えます。


戸田城聖氏の帝国海軍への賛辞」

「興亜聖業とは」




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
















本地天照大神・垂迹釈迦日蓮説。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて新年明けてから、大石寺の本来の教義的前提に存在した神道の影響を続けて書いています。
この問題、日蓮自身に天照大神八幡大菩薩を重要視するエレメントがあり、それが大石寺富士門流に教義として伝えられてきたというのが実態だったように思います。


そもそも大石寺に伝えられてきたとされる『本尊三度相伝』には以下のようにあります。


「釈迦と申すは天照太神、西天に釈迦と顕はれ、諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本にまた大明神と顕はれ、正直に方便を捨つる本願の誓に酬て、正直の頭に宿る。末法濁世の時は、日蓮聖人と顕はれ、諸仏の本願を顕はす。」
(『本尊三度相伝』富士宗学要集1-38ページ)


読めば一目瞭然で、釈迦・日蓮の本地が「天照大神」であることが説かれ、天照大神垂迹が釈迦であり日蓮であるということになります。


また『産湯相承事』には以下のようにあります。


「我が釈尊法華経を説き顕し給石より已来十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神釈尊日蓮とか一体の異名・本地垂迹の利益広大なり」
(『産湯相承事』創価学会版御書全集、879ページ)


読めばお分かりのようにここでは十羅刹と天照太神釈尊日蓮とが「一体の異名」であるとまで書かれています。


『産湯相承事』も『本尊三度相伝』も後世に創作された偽書であると私は思いますが、少なくともこれらが"相伝書"として大石寺、あるいは富士門流諸山に伝えられ、その中で「釈迦と日蓮の本地は天照大神である」という教義が史的に形成されてきたという可能性は十分にあると思います。







選挙支援と信仰活動を結び付ける傾向。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて最近の創価学会では、公明党への選挙支援と創価学会の宗教活動を結び付けることが常態化してきているようです。


以前に宗教活動と選挙支援活動を結び付けている、その淵源が池田大作氏の『立正安国論講義』にあるのではないかという提起を記事で書いたことがあります。


「選挙の勝利至上主義の淵源」


今回、ブログ読者で、創価学会の覆面活動家さんから投稿を頂きまして、掲載の許可を頂いたので、メール内容を紹介したいと思います。お読み頂くと、現在の創価学会がますます信仰活動と選挙支援とを結びつける傾向が強まっていることがなんとなくわかるかと思います(逆に選挙における勝利至上主義はややトーンダウンしている印象も受けました。沖縄県知事選挙の影響があるのやもしれません)。


いつもありがとうございます。
 さて今回の情報は、2018年12月12日(水)に東京都S区某地区拠点の某会員宅で行われた三本部合同の男子部政治学習会での事です。
発言した担当幹部は、総区男子部長で聖教新聞社職員の方です。
気楽非活さんが、現役の活動家だった時より、公明党の支援活動の意味が少し変わったように感じたのでメールしました。
以下、メールが長くなりますが、総区男の発言の要旨です。
 
 
“最初に、今まで男子部で曖昧だった政治学習会と支援学習会について明確に区別したいと思います。
 政治学習会は公明党の政策を学ぶ学習会です。Fを取るときの語り口にしてください。
 支援学習会は創価学会がなぜ公明党を支援するのか学ぶ学習会で、主に御書や池田先生の指導を学びます。ですから今回は支援学習会になります。
 皆さんに強調したいのは、「創価学会は生きた宗教である」と言う点です、信仰を根本に個人の幸せに向き合っている宗教団体は創価学会だけです。
 個人の幸せに向き合う生きた宗教であるからこそ、日本が民主主義国家で選挙があるかぎり、政治とは永遠に関わり続ける必要があります。
 日蓮大聖人の立正安国論は究極の平和主義です。新人間革命の4巻と21巻に池田先生が立正安国論に言及していますので熟読して下さい。
 創価学会の考える世界平和とは、戦争が無い状態が平和ではありません。 物質的に恵まれた状態が平和ではありません。精神的に満たされた状態になって初めて平和であると考えます。
 一対一の対話でひとりひとりを幸せにできる創価学会こそが、世界で唯一、世界平和を実現できる団体であり創価の励ましが世界に広まった時が世界平和なのです。
 これが人間革命の思想です。
 では、選挙の支援活動に功徳はあるのか?  あります。選挙の支援活動は友人に、創価学会員であることを伝え、なぜ創価学会を信じているかを伝え、人間革命、世界平和の思想、創価の励ましの思想、全ての人の命に無限の可能性があることを信じる一念三千の思想を語るのですから、折伏そのものです、功徳が無いわけがない。
さらに言えば、このような活動ができるのは日本の創価学会だけで、世界で唯一の活動です。仏縁の拡大でいある以上功徳は絶大です。人脈を総当りすることで宿命転換できないはずが無い。
さらに極論すれば、公明党議員を当選させることが目的ではない。投票日までに、人脈を総当りして、人間革命の思想、創価の思想を語っていく。
それで、自身の目標、夢、課題、悩み、宿業を投票日までに、同時に決着させていく事が大事です。
投票日の万歳は、自身の明確な目標を達成できた事に対する万歳であり、究極の所、公明党議席や政策など関係ないのです。”
 

以上が発言の要旨になります。
 
以前から、選挙の支援活動と功徳を結びつける幹部指導はありましたが、最近より強くなったように感じます。昔は幹部の中に選挙と信心は別だと発言する人がいたように記憶していますが、今はそのような幹部は、ほとんどいません。
 
2016年から青年部が取り組んでいる、VA(ボイスアクション)などでアンケート活動をする政策は、良く言えば生活に身近な物ばかりですが、安全保障や外交政策経済政策など、難しい問題から目をそらす為のもののように感じます。
 
あわせて、最近の青年部は、投票日までに自身の人生の課題に決着をつけることが大切だと強調されています。投票日までに支援活動に取り組みながら、就職、転職、恋愛、結婚、仕事での実績、資格試験、病気の克服、人間関係の改善(職場での上司、同僚との関係。あるいは家族との関係など)等々、真剣に取り組み結果を出すのが、人間革命なのだと指導しています。
 
そして、注目すべきは最後に、『究極の所、公明党議席や政策は関係無い』と発言したことです。以前の公明党の政策と違うことを指摘された時の予防線であり、今後の選挙での敗北も視野に入っているように感じました。」
 




このような投稿を頂き、私も少々驚きました。


言論出版妨害事件以降、創価学会は選挙支援と信仰活動を表向きには別のものとして、建前として会員の政党支持の自由を謳いました。
実際に創価学会の活動家になれば、全てが公明党の支援ばかりで「会員の政党支持の自由」などといったところで有名無実なのですが、最近の創価学会では更に「選挙支援=信仰活動」「選挙支援に功徳がある」という傾向が強まっていることがよくわかると思います。


投稿、ありがとうございました。
また読者の皆さんからの投稿を、お待ちしています。いつもありがとうございます。


追記:
私は基本「功徳」という語を「ご利益」のような意味で使う大石寺系教団、創価学会の用法を疑問視しています。
上の記事で便宜上「功徳」という語を「ご利益」という意味で使っているのは、大石寺系、創価学会員さんが当ブログの読者に多いことが予想されるため、読者の皆さんの便宜を優先したためです。ご承知頂ければ幸いです。










奉書写之の4文字。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺では法主書写本尊の左下に「奉書写之」の4文字が書かれることについて、これを「之を書写し奉る」と読み、ここでの「之」とは「大石寺奉安堂蔵の弘安2年戒壇本尊」であると考えます。


実際『大白法』掲載の文書である『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』でも「奉書写之」の「之」は「戒壇本尊」である旨を述べています。


ところが調べてみると、大石寺法主でも3世日目や6世日時、8世日影、9世日有は書写本尊に「奉書写之」や「書写之」という文字を書いていません。
更に付言すれば日興本人の書写本尊にも「書写之」と書かれていないものが存在します。


冒頭画像はそれぞれ、

9世日有(文安4年5月19日、村上家蔵)
8世日影(応永20年8月、柳目妙教寺蔵)
6世日時(明徳3年4月13日、宮野妙円寺蔵)

全て大石寺法主の書写本尊ですが、これらには見ておわかりのように「奉書写之」という文字は書かれていません。


ここから考えて、大石寺には元来「奉書写之」の文字を書く教義的な前提が存在していたわけではなく、後世に作られたものに過ぎないのでしょう。日興書写本尊の中には「奉書写之」ではなく単に「書写之」「写之」等と書かれて「奉」の文字が省かれているものも存在しますし、全く書かれていないものも存在しています。







北山伝灯院日祥の存意書から。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺戒壇本尊に関して北山本門寺の見解として、以下のような資料を富士宗学要集に見出すことができます。一部を引用してみましょう。



「此段悉く違背の旨に御座候本末師弟の重義を忘却致し大石寺は因縁之有りなどと甚だしき軽蔑不法の至りに御座候、末寺たるの上檀家を教導致し本寺へ参詣させ本尊等受けさすべき筈、然るに法華寺の僧侶ども吾本門寺に参詣を関留め他の大石寺へ参詣を勧め候義不法の至り且つ大石寺日蓮一期弘法の為の大事戒壇の本尊之有りと申す義は以ての外の義に御座候、既に宗祖聖人上行等の四菩薩書き現はし給ふ十界具足の本尊は都て是一期大事の本尊に有らざるは之無く、将又戒壇の即是道場に候へば本尊安置の処皆是戒壇に有らずや何ぞ大石寺に限らんや、殊に同寺の戒壇の本尊之有りと申す事疑難少なからず、抑も日興門流においては戒壇と申すことは拙寺に限り候、其聖跡は開山三堂建立せらるる其の棟札に、一日蓮聖人御影堂、一本化垂迹天照大神宮、一法華本門寺根源、裏書に国主此法を建てらるるの時は三堂一時に造営すべき者なり、願主白蓮阿闍梨日興判と記し什宝に之有り候、之即ち戒壇の礎石相定め置かれ候豈大石寺戒壇の義有らんや、且つ本尊の義拙寺に宗祖真筆の本尊数多之有り、其中に万年救護の大本尊と申し御判の辺に本門寺に懸け万年の重宝たるべしと之有り候間、開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是即ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや、全く欺かれ候義不便に御座候」
(北山伝灯院日祥の存意書、慶応元年12月、富士宗学要集9-153ページ)


私個人の見解として日興の本門寺の構想は、北山本門寺とか上条大石寺とか、ある一つの寺を「本門寺」とするのではなく、広宣流布の時に至って複数の寺を「本門寺」とする、国分寺のような考え方を採っていたと考えています。それ故に別段上条大石寺とか北山本門寺とか、どこか一つの寺がその唯一の本門寺の役割を果たすとは思っていません。


「本門寺に懸けられるべき本尊」


私個人の意見はさて措くとして、ここで注目されるのは「万年救護本尊」を大本尊として「本門寺の重宝」とする見解を北山がここで示していることです。
ただ北山本門寺では弘安3年5月9日の日禅授与曼荼羅を「万年救護本尊」と呼称するようなので、この「万年救護本尊」が保田妙本寺の万年救護本尊を指しているわけではないのかもしれません。


更には、

「此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや」

「将又戒壇の即是道場に候へば本尊安置の処皆是戒壇に有らずや何ぞ大石寺に限らんや」

「殊に同寺の戒壇の本尊之有りと申す事疑難少なからず」

と、弘安2年造立説の戒壇本尊の信憑性について、この当時から疑念を北山が表明していたということになります。