気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

アンケート結果と座談会の充実について。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて本年2018年の5月から6月にかけて、創価学会内では新入会の方を対象にしたアンケートがあったそうで、9月になって、そのアンケート結果が現場に降りてきたそうです。
 
 
今回は、そのアンケート結果と、実際に情報提供を頂いたその活動家の方の感想等を書いてみたいと思います。情報提供、いつも本当にありがとうございます。
 
 
この新入会者を対象としたアンケートというのは、2000年代以降、数年に一度行われているもののようで、既に数回行われているとのことです。私が活動から離れて非活になった時期と重なるので、私自身にあまり記憶がないのはそのせいかもしれません。
 
 
まあそれはともかくとして、原田稔会長は9月の本部幹部会で「新入会のメンバーにアンケートをとると、座談会が苦手と言う人が多くいました。つきましては座談会の充実に力を入れてまいりたい。」と発言したんですね。
 
 
この活動家さんはこの話を聞いて正直次のように思ったそうです。
 
 
「そんなこと今頃知ったのか、この会長は。現役の活動家でも"恐怖のワンパターン"で苦行と思ってやっているのに」
 
 
また私に対してその方は、次のような意見を述べていました。
 
 
「しかし現実には座談会の充実が一番難しい問題で、教学、人間革命の勉強会、政治学習などを充実させようとすれば、会員さんから『今の創価学会おかしくないですか?』と言われるのがオチですし、反執行部的な雰囲気になるような企画は、職員幹部に色々止められるので充実させようが無いのです。」
 
 
「むしろ、新入会の人は創価学会のタブー『池田先生が表に出ない理由』や『なぜ昔と政治的立場が違うのか』などを聞いてくるので現場としては座談会に来てほしくないのです。」
 
 
「だから充実させるには、音楽や手品等のうまい会員がいればやってもらい、小学校低学年の未来部がいれば未来部コーナーとして充実させるくらいしかありません。」
 
 
 
以下に現場に降りてきたアンケートの結果を載せてみたいと思います。
 
 
 
対象者:創価学会に入会して10年以内の日本国内の創価学会
 
人数:約8,000人
 
 
質問:入会する前に創価学会を知っていましたか?(はい・いいえ  で回答)
回答:いいえ  74%
 
 
質問:紹介者との関係は?
回答:友人・知人・職場の同僚  52%
家族  30%
 
 
質問:創価学会に入会した理由は?(複数回答可)
回答:人間的に成長できると思った  42%
紹介者の人柄を信頼したから  40%
仕事の悩みがあり、信心で解決するため  35%
 
 
質問:入会を決めた紹介者の一言は?(複数回答可)
回答:君と一緒に成長したい  38.8%
一緒に幸福になろう  37.7%
 
 
 
以上は私に情報提供を頂いた活動家の方が協議会で確認した内容です。
この方の感想を紹介してみたいと思います。
 
 
まず第一に創価学会に入った人でも7割以上の人が入会前に「創価学会を知らなかった」ということです。以前に比べても知名度が落ちた印象は拭えないかと思います。
 
 
第二に回答数がわずか8,000人であるということです。この活動家さんは5月〜6月にかけてこのアンケートのために「新入会員を総当たりしたはずだ」と述べていました。さらには「入会10年以内」が対象であるにもかかわらず、アンケートに回答する会員、つまり連絡の取れるメンバーがわずか8,000人しかいなかったということになります。この方は「毎年3万人くらい青年部だけで布教したはずだ。死亡や新生児の数を差し引いても10年間の結果が8,000人というのは笑えない」と述べていました。
 
 
第三に、入会動機として病気や貧困等が上位に入っていないという点です。少なくともこのアンケート結果から見れば、もはや創価学会の布教の動機は、貧困や病気からの救済ではなくなったと言えるかと思います。創価学会はもう病気や貧困の人を救えなくなったのかもしれませんね。
そういえば、創価学会と同様、最近は大石寺法華講さんも、布教の方針として「正しい信仰のすすめ」とか「悩みの克服」とかを言うことが増えてきました。病気や経済苦の克服とかは彼ら大石寺系教団はもはや言えなくなってきてしまったのかもしれませんね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

初期仏教のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて最近、初期仏教に関する本を一冊読みました。馬場紀寿氏の『初期仏教  ブッダの思想をたどる』という本です(岩波新書、2018年)。
そもそも阿含部・アーガマを大小相対で"小乗仏教"とする安易な大石寺教義の考え方は、Libraさんをはじめ、多くの方にその矛盾点を指摘されています。
私も全く同感で、馬場紀寿氏はここで原始仏教ではなく、あえて「初期仏教」というタームを用いています。


そもそも馬場氏がここで指摘しているように、仏教は誕生後、400〜500年の間に、南アジア各地に伝播していきましたが、発祥の地であるガンジス川流域から飛躍した教えは、紀元前後に重大な変容が起こることになります。
馬場氏はこの変容以前の仏教を「初期仏教」(Early Buddism)と定義して、これを描いていきます。というのは、そもそも「原始仏教」という概念がしばしば紀元前3世紀以前の仏教を指して用いられてきたのですが、この紀元前3世紀以前の仏教について確実にわかっていることはほとんどありません。そのため、焦点を絞るために「初期仏教」というタームを中心に据えるという考え方は理解できる気がします。


さてこの本の中で、最初の序文に書かれたことがとても示唆深いので、今回はこれを紹介してみたいと思います。そもそも本来の仏教とはどのようなものだったのか、これを読むとなんとなくわかるでしょう。気になられた方は同書を手にとってぜひ繙読されることをお勧めします。



「本書では、インドの仏教の中でも『初期仏教』の思想について論じたいと思う。それは、我々が資料にもとづいて実証的に明らかにしうる、最も古い時期の仏教である。
冒頭で私は仏教を『宗教』と呼んだが、じつを言うと、この初期仏教が、近代西欧で作られた『宗教』概念に、あるいは我々が抱いている『宗教』の印象に当てはまるのか、はなはだ疑わしい。
まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教キリスト教イスラム教で信じるような世界を創造した神は存在しないと考える。神々(複数形)の存在は認めているが、初期仏教にとって神々は人間より寿命の長い天界の住人に過ぎない。彼らは超能力を使うことはできるが、しょせん生まれ死んでいく迷える者である。もし『神』を全能の存在と定義するなら、初期仏教は『無神論』である。
神々もまた迷える存在に過ぎない以上、初期仏教は、神に祈るという行為によって人間が救済されるとは考えない。そのため、ヒンドゥー教のように、神々をお祭りして、願いをかなえようとする行為が勧められることはない。願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならない、ということに目を向ける。
さらに、初期仏教は、人間の知覚を超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように『道』と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。それどころか、人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと、初期仏教は主張する。
宇宙原理を説かない初期仏教は、宇宙の秩序に沿った人間の本性があるとは考えない。したがって、儒教朱子学)のような『道』や『性』にもとづいて社会や個人の規範を示すこともしない。人間の中に自然な本性を見いだして、そこに立ち返るよう説くのではなく、人という個体存在がさまざまな要素の集合体であることを分析していく。
こうした他教だけではない。初期仏教は、日本の仏教ともずいぶんと様相を異にしている。初期仏典では、極楽浄土の阿弥陀仏も、苦しい時に飛んで助けに来てくれる観音菩薩も説かれない。永遠に生きている仏も、曼荼羅で描かれる仏世界も説かれない。
また初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案)に集中するとか、ただ座禅(只管打坐)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈禱をすることもない。出家者が呪術行為にかかわることは禁止されていた。
初期仏教は、それに代わって、『個の自律』を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく『自己』に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する『渇望』という衝動の克服を説く。
先の見えない社会状況の中で不安が蔓延している今日、このような初期仏教の思想は、魅力をかえって増しているように見える。」
(馬場紀寿『初期仏教  ブッダの思想をたどる』ii〜ivページ、岩波新書、2018年)





参考文献:
馬場紀寿『初期仏教  ブッダの思想をたどる』岩波新書、2018年










「仇討ち」としての沖縄県知事選挙。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今月に行われる沖縄県知事選挙で、首長選挙にもかかわらず、創価学会が組織を挙げての選挙戦になっていまして、活動家の方からの連絡・情報提供により、いろんな話を私も伺っています。


東京都内の青年部は、投票日直前の日程で沖縄入りして選挙支援をするメンバーが多いようです。つまり学生時代の同窓生など弱い人脈を当たることが多いため、ギリギリ直前の日程の方が効果的であるという判断が働いているためです。


また九州方面では、沖縄県にFのいる(友人縁戚のいる)メンバーを中心に「琉九会」(琉球の「球」に九州の「九」をかけたネーミングだそうです)という会を結成し、活動しているそうです。



Twitterでツイートされている方もいたようですが、九州方面の創価学会としては、今回の沖縄県知事選挙を「仇討ち」と位置付けて選挙戦を戦っています。
どういうことかと言いますと、2012年の第46回衆議院選挙で、玉城デニー氏は日本未来の党から沖縄3区で出馬したんですね。玉城氏は小選挙区では破れたのですが、比例九州ブロックで復活当選を果たします。実はこの時、玉城デニー氏が比例九州ブロック最後の議席を争った相手が公明党比例4位の新福愛子氏で、当選が決まったのが480人中479番目でした。また玉城デニー氏の比例獲得議席は当時九州で日本未来の党が唯一獲得した議席でした。比例九州ブロック公明党の4番目の議席玉城デニー氏に奪われた形になったわけです。


この時に449票差で新福愛子氏が敗北し、これを九州創価学会、とりわけ婦人部が「獅子の敗北」と位置付けたのだそうです。特に新福愛子候補は婦人部からの人気も高かったんですね。


そんなわけで、現在の九州幹部は次のような言葉を会合で言ったりします。


「御本尊様から仇討ちのチャンスを頂いたのです。」
「今、この沖縄県知事選挙に勝利することが、あの時の誓いを果たす戦いです。」


しかしまあ、いくらなんでもこれはこじつけに過ぎると思います。だいたい玉城デニー氏は公明党に喧嘩を売ったわけでもなく、たまたま比例名簿の順番で玉城氏が当選し、新福氏が落選しただけのことです。
そんなわけで、創価学会内部にも「比例名簿の順番で惜敗しただけで、玉城デニー氏を仏敵認定するのは筋違い」「論理がめちゃくちゃだ」との声も多くあがっています。


まあ、こんな発想が出てくるのも、所詮彼らの思想的バックボーンに「敵を作る発想」があり、その思想的陥穽から抜け出られていない醜態を晒しているだけなのかと思います。


「見えない敵と闘う創価学会


このような「外に敵を作る発想」は創価学会員にも、また法華講員さんにも、またアンチ創価学会、アンチ信濃町にも見られる思考法ですが、この発想を自覚しない限り、このように安易に「誰かを悪者にして責めればよい」という短絡的な思考に堕するだけかと思います。


















経営コンサルティング会社との契約。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は創価学会が、外資コンサルティング会社と契約を結んで法人改革を進めていた点についてです。



時期的に言うと2000年代半ば、創価学会本部は外資コンサルティング会社である「アクセンチュア」と契約をし、法人改革を進めました。
行われたことは、外郭企業や団体を効率よく配したグループ戦略により教義を広めるということで、これこそがアクセンチュアの指南の一つであったと言われています。



冒頭画像は、2008年6月に外資コンサルティング会社アクセンチュア創価学会信濃町内部の「ビジョン会議」で提示した提案資料の一つです。



2008年当時、創価学会は谷川事務総長の主導により、アクセンチュアコンサルタントを動員して外郭企業の統廃合、人員削減といった法人改革を進めていたとされています。
画像を見ればおわかりの通り「コンテンツ」や「リソースシフト」と言った語が散見され、とても宗教団体に関する提案資料とは思えません。


そしてこのアクセンチュアの提案で、広宣事業の中核・中心としたのが「三代会長の精神」ということでした。
その意味でアクセンチュアの提案では三代会長の事績や指導等を新聞・雑誌媒体、また展示イベントやモバイルSTB等で末端の信徒や社会に届けることが現代における「広宣流布」であると位置付けられていたようです。


そしてそのためのアーカイブ事業を確立することが重要で、そのために規範となるべき資料については「正統性を担保する仕組み」として認定委員会の承認を経なければならないとしました。認定委員会の承認を得られないもの、つまり都合の悪いものは表に出さないようにする仕組みができたようです。まあ、以前から創価学会大石寺はそういうところがあるので今更な感じはしますが。



宗教団体がその教義を広めるためにコンサルティング会社と契約をして指南を受けるというのは前代未聞ですが、それだけ創価学会も自分たちの教団の布教活動の今後の展開に不安を覚えていることの表れなのかもしれません。また同時にそれは大石寺系教義の欺瞞を知ってしまったが故の信濃町の今後の経営戦略なのかと私の目には映ります。







参考文献:
高橋篤史「創価学会創価マネー』の巨大経済圏」、週刊『東洋経済』2018年9月1日号、特集「宗教  カネと権力」所収。






法華垂迹天照大神宮のこと。







いつもみなさん、ありがとうございます。
本日の記事は、日興門流における、天照大神八幡大菩薩の考えについてです。



ところで、北山本門寺の本堂の裏には、日興が永仁6年(1298年)2月に建立した「本化垂迹天照大神宮」というものが存在します。
つまり日興自身が重須に神宮を建てているのです。


で、これについて北山本門寺に伝わる『本門寺棟礼』では「国主此の法を建てられるの時」「三堂一時に造営する也」とされています(『日蓮正宗歴代法主全書』1-88ページ)。
つまり北山本門寺の教義では天下一同法華経信仰の時に至って本化垂迹天照大神宮に神が宿る、そのための建物と考えられているようです。


当時、日興自身がここ重須に神宮を建立したことは、大石寺9世日有も認めています。


「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり内には本尊を懸けらる、是レは本門寺の朽木書と云云、今の義にあらず、天下一同の法花経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在す(まします)べし云云」
(『有師化儀抄』富士宗学要集1-74ページ)


一読すればわかる通り、日有もまた北山に神宮が日興によって建立されたことを認めています。またその意義についても現在の北山本門寺の述べる本化垂迹の教義と基本同様のことを述べています。


ところで、神社参詣行為を"謗法"として禁じているはずの大石寺にも、かつては八幡大菩薩天照大神を祀った「天王堂」「垂迹堂」が存在していたことがわかっています。
それは大石寺59世堀日亨氏の以下の発言からです。



「又神社なき地に新寺を建立したるときは、更に其縁由の神を勧請して・垂迹の宮を建つ、日蓮宗殊に本宗には天照大神御神・八幡大菩薩を勧請すること、近時まで在りし吾本山の天王堂垂迹堂の例」
(堀日亨『有師化儀抄註解』富士宗学要集1-158ページ)



つまり神社の無い土地に新しく寺を建立した時は、その由縁の神を勧請して垂迹堂を建立することは大石寺の元々の教義にも普通にあったことで、実際に堀日亨氏の発言によるなら近年まで大石寺には天照大神八幡大菩薩を祀った「天王堂」「垂迹堂」も北山本門寺と同様に存在していたということです。




正本堂の意義の変遷と顕正会の供養参加。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は正本堂の意義づけと顕正会(旧妙信講)の供養参加についてです。


この問題については、先に以下の記事を読んで頂いた方がよいかと思います。


正本堂の意義づけ」


要するに昭和39年5月3日の時点で創価学会側と池田大作氏は「本門戒壇堂は正本堂とは別に建てられる」と考えていたのに対して、大石寺側がその9ヶ月後、細井日達氏の説法により「戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂に安置すべき」として、事実上、将来において正本堂が本門戒壇堂の役割を果たすという指摘をしたわけです。


ところで、この正本堂の供養には、なんと顕正会(当時は妙信講と言いました)も実は参加しています。事実として彼らは講で800万円の供養をし、細井日達氏より数珠を頂いています。


この事実を顕正会側は非常に巧妙にごまかすんですね。つまり彼らとしては国立戒壇絶対の立場なわけで、それ故に大石寺創価学会を批判して自分たちの正統性を主張したいという思惑があるのかと思います。


例えば妙信講の当時の機関誌『富士』において、浅井甚兵衛氏の発言を紹介し、「今回、総本山において御法主上人猊下の御思召により、正本堂が建立されることになりました。妙信講も宗門の一翼として、講中の全力を挙げ、真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました」と述べています(『富士』昭和40年7月号、浅井甚兵衛講演、総幹部会にて、昭和40年5月25日)。


この正本堂建立供養への参加発言は、よほど顕正会に都合が悪いと見え、この昭和40年5月25日の発言について顕正会側は機関誌において「当時はまだ誑惑が顕著ではなかった」「管長猊下は一言も正本堂を御遺命の『事の戒壇』などとは云はれず」と言い訳をしています(『富士』昭和61年8月号)。


ところが、この顕正会側の発言はよく読むと時系列がおかしいことがわかります。
時系列に書き出してみましょう。


①昭和39年5月3日
池田大作氏が正本堂建立寄進の発議をし、この中で「正本堂の後、あとは本門戒壇堂の完成を待つばかりである」という趣旨の発言をする。

②昭和40年2月16日
細井日達氏が「戒壇本尊は特別な戒壇堂ではなく正本堂に安置されるべき」「大御本尊のある堂がそのまま戒壇である」という趣旨の発言をする。

③昭和40年5月25日
妙信講(現顕正会)、浅井甚兵衛氏は正本堂建立供養に参加する旨を宣言する。



顕正会側が「誑惑が顕著になった」とした発言の景気は「時は昭和40年2月16日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(『富士』昭和52年8月号)とあるように、昭和40年2月16日の細井日達氏の説法です。ところが、その説法が行われた3ヶ月後に明確に妙信講は供養参加を呼びかけており「誑惑が顕著でなかった」とする発言はなんら整合性がありません。


ここから論点を整理すると以下のようになるかと思います。


1、昭和39年5月3日の段階で、正本堂建立寄進を発議した創価学会および池田大作会長は正本堂を当時、本門戒壇堂と別のものと考えており、「本門戒壇堂」は当時の教義では「国立戒壇」であったことから、正本堂建立供養を「最後の供養」としていた。


2、ところがその9ヶ月後、昭和40年2月16日、第1回正本堂建設委員会(於大講堂)の席上で、大石寺66世細井日達氏は二箇相承の「本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の意義について、本門寺の中に特別な戒壇堂を設けるのではなく、本堂に安置されるべきである」という趣旨の発言をし、事実上、"広宣流布"の時に戒壇本尊安置の正本堂が本門戒壇になることを認める。


3、妙信講(現顕正会)はこの昭和40年2月16日の細井日達氏の発言を受けて、昭和40年5月25日に正本堂建立供養参加を呼びかけ、講中として800万円の供養を行った。このことから浅井氏は日達氏より数珠を賜っている。












在りし日の母を思って。





いつもみなさん、ありがとうございます。


最近は1ヶ月に10万を越えるアクセスがブログにあり、本当に驚いています。同時に創価学会大石寺の教義の欺瞞に気づいて離れる人、非活になる人、離檀される人が多く、メールをよく頂いています。なかなか全ての人に返信が思うようにできず、申し訳なく思っています。


ところで、最近の反響の大きかったブログの記事は、私の母に関することでした。


「母の言葉を」


母は、亡くなる少し前から非活になりました。
大石寺系の教義について、全てを全面的に否定することは難しかったようです。それでも母は「お前が正しいのかもしれないね」と言い、私とともに非活になっても、財務をしなくなって組織から離れても、私に不平の一つも言わない人でした。


母は若い頃、楽しく活動をするのが好きでした。座談会が終わると皆でワイワイとお茶を飲んだり、お菓子を食べながらトークするのが好きでした。
母は形式に則った会合など最初から馬鹿にしてかかっていました。長い幹部の話は嫌いでしたし、早く終わりにして皆で遊びに行きたい人でした。


選挙となると創価学会員は、友人を探して求め歩いたり、非常識に電話をかけたりしますが、母はそういうことはしませんでした。どちらかというと日頃の生活から友だちを作ってしょっちゅう遊んだりしていました。
友だちを作ってスポーツを観戦したり、花火に行ったり、踊りを習ったり、絵を描いたり、カラオケに行ったり、テニスをしたり、元気な頃は何でもやってました。


母にとっては友だちと楽しく過ごすことがメインなのであり、友人に布教をするとか選挙を頼むとかはあくまで二の次の問題でした。
票を叩き出すために友人台帳を作るという活動をしていた時に「そんなことやって何か意味あるのかい」と言われたこともあります。


地区で入会数の目標が届かず、布教の現場を作ろうと言うと、大抵、母は自宅に友人をたくさん招いてパーティをやったりしました。コーヒーを上手に淹れたり、お好み焼きや焼きそばを作って皆で食べたりしました。
「悩みがない人、入会したいと思わない人に布教しても意味がない」と母は考えていまして、パーティを自宅でやっても宗教の話を全くしないこともありました。そんなわけで、上の偉い婦人部幹部に睨まれることも少なくなかったようですが、母は全く気にしていませんでした。
誰よりも友人が多く、楽しく話す明るい人こそが私の母でしたから、支部内や他支部の人たちまで母を慕っていたんですね。分県の中心会館で体験発表をしたことがあって、わざわざ近隣の市から母に会いたいとやってきた人があったくらいでした。そんなわけで圏幹部たちも母を実質的に敵に回すことができませんでした。


宗教を信じることで生活が豊かになり、楽しく仲良く皆で暮らせることが母にとって大切なことでした。母は信仰の面から自分の縁戚と一部関係の断絶があったことも事実です。だからこそ逆に人と人との繋がりを大切にしていた印象があります。


形式になって形骸化するならやらない方がいい。自分たちが楽しくなかったらやらない方がいい。
楽しいことをやろう、皆で遊びに行こう、というのが母のスタンスでした。本部幹部会の同時放送に行くと帰りは大抵どこかの友人の家でお茶を飲みながらお喋りしていました。あんまり話が長いので、もういい加減にして帰ろうと声をかけたことも少なくありません。


母は苦しんでいる人に誰よりも寄り添う人でした。
地区内にいた、難病で寝たきりの旦那さんを持つ婦人を、母はとても大事にしていました。彼女の生活を喜んで支えて、代わりに買い物に行ったり、家に招いて食事をご馳走したりしていました。その女性は困ったことがあれば母のところにばかり相談に来るのです。圏幹部も本部幹部にも彼女は心を開きませんでした。ただ私の母にだけ自分の心を開いていました。母にはそういう友人が内外にたくさんいました。創価学会員であるとかないとかさえ母には関係なかったんですね。
母は貧しい暮らしがどういうものなのかを肌身でよく知っていました。だから貧しい生活をしている人を放っておけなかったのでしょう。


母の在りし日を思ってこうして書いているだけで、私は胸が熱くなるのを感じます。同時に母に教わったことを胸に生きていけることに、毎日感謝するばかりです。


信仰は形式でするものでもありませんし、組織のためにするものでもありません。私はそのことを母から教わりました。組織に汲々と縛られるために私たちは生きているわけではありません。目的は自分と周りの人たちがただ楽しく幸せに暮らすことです。それ以上の目的は母にはありませんでした。それが正しいのかどうかは知りませんが、母は自身の信仰の活動をそのようなものとして理解していました。


母のような人が昔の創価学会にはたくさんいたように思います。だからこそ社会のセーフティーネットとして、地域に密着して発展してきたのが創価学会の昭和史なのでしょう。
母はもうこの世にいません。そして創価学会の歴史的な役割も徐々に終わりつつあるのかと思います。