気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

内部・外部という言い方。




いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで、創価学会員さんは自分たち会員のことを「内部」と呼んで、それ以外の非会員、信徒でない人のことを「外部」とよく呼びます。


実は私は活動家時代から、この呼び方が好きではありませんでした。


自分たちを「内部」と呼び、それ以外の一般の方を「外部」と呼ぶのは、自分たちが一方的に正統であるという、独善的な調子をどこかに私は当時から感じていました。
ですから活動家時代からも、私はあまり「内部」「外部」という言い方は使わないようにしていました。ただ「内部」「外部」と言った方が創価学会員さんには伝わりやすいので、便宜的に使ってきた経緯はありましたが、どこかに違和感を感じていたのは事実です。


大石寺の信徒さんにも言えたことですが、どこか創価学会員には自分たちが一方的に正しく、そのためにはいかなるごり押しも正当化されるという偏屈さがあるように思います。


例えば創価大学という学校がありますが、あそこは基本的に「学校」であり「大学」です。本来宗教施設ではありませんし、宗教学科も存在していません。それにも関わらず、創価学会信徒の学生が多いため、一方的に「唱題会」とか宗教的な会合を大学内で開いたり、宗教的なタームを一方的に非会員にも使う無節操さがあります。
そういう閉鎖的な学生が一部にいることは事実でして、「今日、聖教新聞読んだ?」などと非会員に無節操に言ったり、選挙シーズンになると授業を放り出して票稼ぎに出向いたりする学生がいたりします。


もちろん全ての創価大学の学生がそうであるとは言いませんが、「内部」「外部」というタームの違和感も感じずに使う、つまり他者性をあまり考えることができない創価学会信徒のメンタリティがこの辺にあるのかと私は思っています。




日興は身延から何も持ち出していない。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日興の身延離山についてです。


大石寺側の見解としては、日興が身延を離れる際に「戒壇本尊」や「御肉牙」「日蓮の遺骨」等を持ち出し、富士大石寺に来たとしていますが、これは史実とは異なります。


結論から言いますと、日興は身延から何も持ち出していません。
日尊の弟子である日大による『日尊上人仰云』(日尊実録)では以下のように記録されています。


「日興上人仰に云く、全身・砕身の二種の舎利あり、彼は砕骨也、法門は全身也、砕身に依るべからず、(中略)身延澤御退出の刻、公方聖教世事雑具等、皆悉く御墓所に置くべきの由、衆徒に触れられし時、面面供奉の人人、一紙半銭も持ち出ること無し、(中略)大聖人の御遺骨身延山に納め奉るの段、誰か疑貽あらんや」
(日大『日尊上人仰云』日蓮宗宗学全書2-419ページ)


また日興は『原殿御返事』の追記で、身延を去った際に持って来てしまった涅槃経2巻をきちんと身延に送り返したことが書かれています。引用してみましょう。


「追って申し候。涅槃経第三第九二巻御所にて談じて候いしを、愚書に取具して持ち来って候。聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進らせ候。」
(日興『原殿御返事』編年体日蓮大聖人御書、創価学会版、1735ページ)



ここから大石寺59世の堀日亨氏は、日興が身延を離れる際に何も持ち出していないという見解を『富士日興上人詳伝』で述べています。
つまり日興が身延を離れる際に、日蓮由来のものを日興は何も持ち出していないというのが、事実かと思います。





戒壇本尊の重さ。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて弘安2年造立とされる大石寺戒壇本尊が、後世の贋作でしかないということを、私はブログで度々指摘しています。



加えて今回指摘したいのは、戒壇本尊の実際の大きさについてです。


というのは、大石寺の言い伝えでは、大石寺開山の日興が身延山を離山する時に、この戒壇本尊を持って離山したと言われているからなんですね。


では実際の大石寺戒壇本尊の重量はどのくらいなのでしょう?


大石寺48世日量の『富士大石寺明細誌』によりますと、戒壇本尊の大きさは縦が「四尺七寸五分」で横が「二尺一寸五分」、厚さは「二寸二分」とされています(富士宗学要集5-334ページ)。


1尺=30.03cm
1寸=3.03cm
1分=3.03mm


と考えますと、戒壇本尊のおおよその大きさは


縦:約143cm
横:約65cm



となります。



ところで大石寺66世細井日達氏は次のような発言をしています。


戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけど、まわりは丸木です。まん丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたに過ぎません。」
細井日達氏の「寺族同心会」での指南、昭和52年5月26日、大石寺大講堂にて)


ここから考えると、戒壇本尊はカマボコ形の半円筒形をしていて、楠の丸太の表面を削った形になっていることがわかります。
ですから厚みについては単なる板として考えるのではなく、半円筒形として考える必要があるでしょう。



ここから戒壇本尊のおおよその体積を考えてみます。「丸太の前面を削る」という細井日達氏の言葉を受けて、それが丸太を半分に切ったと仮定して「半円筒形」として計算してみましょう。



すると計算式は
32.5×32.5×3.14÷2×143=約237,139立方センチメートルになります。


ここで楠の比重を例えば1立方センチメートルあたり0.52グラムと仮定してみると、


237,139×0.52=123,312グラム

となります。


とすると、戒壇本尊の重量は約123キログラムほどになるかと思います。
しかも比重は湿度によって変化するものですから、これよりも重くなることも在ろうかと思います。
また細井日達氏の言葉によれば、丸木の表面を削っているだけですので、半円筒よりも円筒に近い可能性があります。完全な半円筒で123キログラムですから、もしも削られた部分が全体の1/4だと仮定すると、重さは25%増しになります。すると戒壇本尊の重さは153キログラムを越えることになります。



では重量がおよそ120〜150キログラム相当になる戒壇本尊が果たして弘安2年の段階で日蓮の草庵に置くことができたのでしょうか。
そして日興が身延を離れる際に、それをどのようにして運んだのでしょうか。


こういったことから考えても戒壇本尊というものの信用性がいかに低いか、よくわかるかと思います。







日興遺誡置文のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて『日興遺誡置文』について、これを日興真蹟と私は考えていません。
というより、文献学的な議論を基本とするなら、これを安易に一次文献とすることは回避されるべきでしょう。


大石寺4世日道の『三師御伝土代』によれば(元弘3年、日蓮宗滅後21年)、元徳4年1月12日の「日興御遺告」についてきちんと書いて残してあるにも関わらず、ここには『日興遺誡置文』について全く言及がありません(富士宗学要集5-9〜10ページ)。


日蓮宗宗学全書によれば、底本とされている写本は保田妙本寺日我の写本(天文5年、1536年、日蓮滅後255年)です。
ところが、大石寺に残っているとされる日時写本は現在もなお公開されていません。


この『日興遺誡置文』に限らないのですけど、日蓮や日興述作の真贋問題は、大石寺が自山の写本を公開さえすれば解決する問題が他にも多くあるように思います。
しかしながらそれがなされていない。しかも日道の『三師御伝土代』にも「日興御遺告」が残されながら「遺誡置文」に関する言及もない。
日蓮宗学で『日興遺誡置文』が真蹟として、信頼できる一次文献として扱われていないのは以上のような理由であり、ごく一般的な考え方であると思います。


事実、宮田幸一氏もこれら日蓮宗学の一般的な見解を支持していまして、同書については日興真蹟と考えるのではなく、歴史的に構成された寺内文書として評価することを基本の原則とされているようですが、私はこの見解に概ね同意します。現時点で『遺誡置文』を日興の一次文献と臆断することは回避されるべきかと思います。










任用試験が終わって。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて先月、創価学会の任用試験が終わって、いろいろ現場の声が聞こえてきました。


各方面でそれぞれの実態は異なるかとは思いますが、現場で問題になったのは一部で任用試験を受けなかった人がいたことです。本部で1名ほど受けない人が出たようなんですね。


理由ですが、情報提供の方のお話によりますと、どうも高齢や障害のある方の受験が増えたことにあるとのこと。


創価学会側の理想を言えば、その年の新入信の人が受験するのが望ましいのでしょうけど、すでに布教数の報告がすでに分世帯や御守、新生児の入会等の水増しに過ぎませんから、任用試験を受けようという意識の高い新入会者は少ないのが現状です。


そんなわけで、任用試験の受験者は必然的に中学生と高齢者、障害のある方が多くなり、とりわけ高齢者の方が当日体調を崩され、受験できなかったということです。


今年でさえ創価学会員という自覚のない未来部員に加えて、友人や親戚をあたかも選挙戦のように総当たりして任用試験受験者数のノルマを達成したところがほとんどです。
支部幹部や地区幹部の方は来年の任用試験のノルマをひそかに恐れているようです。


ある壮年部員のぼやきですが、
「来年は、青年教学3級だけであってほしい」
と言われていたそうです。



日尊が建てた寺。




いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで、先日のブログ記事でも指摘したように、大石寺の教義形成には興門流の諸山の影響が大きいかと思いますが、とりわけ京都要法寺の存在を抜きにして語れないように思います。


例えば創価学会が現在独自に信徒に授与を行なっている本尊は栃木県浄圓寺所蔵の日寛本尊ですけど、そもそも栃木県の浄圓寺という寺は日尊によって建てられたものだと言ったら多くの方は驚かれるでしょうか。


京都要法寺開山である日尊は、実に多くの寺を建てています。栃木県の浄圓寺もそうです。
例えば伊豆実成寺と言えば興門流八本山の一つ(現在は日蓮宗に帰属)で興門流では由緒ある寺ですが、この寺も日尊によって建立されています。


他にも例えば東京都墨田区の妙縁寺(日蓮正宗)も日尊によって創建されています。


また仙台の仏眼寺(日蓮正宗)も日尊の手によって創建されています。仏眼寺は昭和3年要法寺からの訴えにより、一時的に大石寺から離脱して要法寺の末寺であった時期さえあります。
仙台の仏眼寺の2代目住職は仙樹院日是という人物ですが、この日是は後に江戸に戻り、常泉寺(東京都墨田区日蓮正宗)を創建しています。



他にも茨城県古河の冨久成寺(日蓮正宗)、埼玉県宮代町の妙本寺(日蓮正宗)、福島県会津若松の実成寺(日蓮正宗)、福島県須賀川満願寺日蓮正宗)や願成寺(正信会系)も、日尊によって建てられた寺です。


それにそもそも大石寺の久成坊は日尊を開基として建立されたものです。


つまり現在の日蓮正宗の由緒ある寺の多くに日尊によって建立された寺が散見されるということであり、またこれらの事実からも京都要法寺日尊系の影響が大石寺にも及んでいたと考える方が自然かと思います。




血脈抄の相伝について。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて大石寺18世(17世)日精の『富士門家中見聞』上の日興伝の項には次のような一文があります。



「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此ノ書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり。」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-170〜171ページ)


この記述が正しいと仮定すると、正和元年(1312年)に日興は血脈抄(本因妙抄と百六箇抄のこと)を用いて、京都要法寺の開山である日尊に相伝をしたことになります。
そしてこの相伝が伝えられたのは


日目(大石寺3世)
日代(日興新六筆頭、西山本門寺開山)
日順(重須談所2代学頭)
日尊(京都要法寺開山)


の4人だったということになります。
ですから、本因妙抄や百六箇抄等の相伝書も別に大石寺だけに伝えられたものではないということです。


そもそも"日蓮正宗"という宗派はかつて存在していませんでした。大石寺は本来興門流八本山の一つという大本山の寺格でしかなく、"日蓮正宗"という名称が決定したのは明治45年(1912年)6月7日のことです。それ以前に歴史には「日蓮正宗」という宗派は存在していません。


日蓮宗興門派としての大石寺


つまり大石寺相伝書や教義と呼ばれるものは、歴史的にも興門流、また法華宗本門流等の諸山から様々に影響を受けて、それらを摂取して形成されてきたものに過ぎないのかと思います。