気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

成果主義。




いつもみなさん、ありがとうございます。
創価学会の活動家として、ほぼ青年時代は全ての時間とお金を創価学会のために私は使ってきました。


「活動を楽しくやる」というのが私と私の母のポリシーでした。
ですから、座談会の企画とか、セミナーの企画とか好きでしたね。
創価学会員さんはイベントも好きで、各種セミナーなんかでは記念の演奏とかもよく会館で行われますね。私はそういう企画も好きで、友人たちとコントをやったり、研究発表をやったりしていました。


創価学会は活動家として上に行けば行くほど、精神的にキツくなってきます。なぜなら布教や新聞営業などの成果として目に見える数字、結果を出さないといけなくなるからです。楽しいのは末端の一部員ぐらいからせいぜい青年部の地区幹部くらいまでで、部長から本部長を経て圏幹部、分県幹部くらいになってくるとかなり締め付けがキツくなります。


定例報告は毎週のようにあり、家庭訪問数と結集数、布教数等を入念に上からチェックされます。圏幹部から本部の数字がおかしいとか、数があがっていない、とかそんなことをよく言われたものです。


そのうち智慧を身につけまして、数字は適当に上にあげるようになりました。これを読んでいる活動家の幹部の方は身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。そもそも報告の数など本質ではないでしょうし、現場で戦うことが尊いことだと私もかつて思っていましたから、徐々に数字は適当になりました。


そのうちに気づいたことなのですが、信濃町創価学会本部にとっては、この布教の数字や新聞営業の数字が大切で、それに貢献しないような活動については、基本否定されるということです。


例えば未来部で行われているE-1グランプリは、もともと一方面で行われたものです。それが成果をあげたからこそ、信濃町もそこに目をつけて全国で行われるようになったんですね。


つまり組織活動に成果を出さないようなものは否定され、成果を出すことが至上命題とするのが創価学会本部の本質なのかと思います。
どんなにきれいごとを述べても、創価学会は最後は結果を出すか出さないかが絶対的な評価基準になります。 

 



追記:
そんな成果主義は元々は創価学会だけに特徴的なところだったのですが、最近は大石寺法華講さんも創価学会成果主義を真似しだしているようですね。布教に煽られる法華講さんも最近は少なくないようで、非活を選ぶこともよくありますから。









日目『日興上人御遺跡事』を見ても。




いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、大石寺第3祖の日目の『日興上人御遺跡事』の全文を今回は紹介してみましょう。



日蓮聖人御影竝御下文 (園城寺申状)
上野六人老僧之方巡可奉守護但本門寺建立之時者可奉納本堂。此條依日興上人仰奉支配事此背此旨成異議失タラン輩者永可為大謗法仍誡之状如件。
正慶二年癸酉二月十三日
日善花押
日仙花押
日目花押」
(『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻213ページ、日蓮正宗、昭和47年)


『日興上人御遺跡事』にはきちんと「本門寺」と書かれていまして、日興の本門寺の構想がきちんと日目に引き継がれていることが確認できるかと思います。ちなみに『日蓮正宗歴代法主全書』第1巻によれば、『日興上人御遺跡事』は、日目真蹟正本が大石寺に現存するとしています。
ところが本門寺に納めるべきものに御影と御下文が書かれてあるのですが、戒壇本尊についての言及は全くありません。
日目上奏の『申状』にも「法華本門本尊與戒壇妙法蓮華経五字也」とあるだけで、弘安2年戒壇本尊への具体的な言及は存在しません。


このように日目も言及していません。
ブログで何度も指摘させて頂いたように、大石寺第4世日道の『三師御伝土代』にも戒壇本尊への言及はありません。


ですから、日興、日目、日道の頃はそもそも戒壇本尊は存在せず、現在の大石寺の教義も存在しなかったと考える方が推論としてより自然かと私は思います。


信ずるに足るか。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さてTwitterでも書きましたが、とりわけ大石寺系信徒さんの中で「理性と信仰は別だ」とする論調を聞きます。
人が何を信ずるのも自由なのですが、私は検証に耐え得るものを信仰として考えたいと思っているだけなんですね。理性や文献的考証に耐え得ない信仰ならそれらは否定・更新されるべきかと思います。


人が何を信じても自由ですが、要するに「信ずるに足る」ものを信じたいということなのではないでしょうか。
そしてその「信ずるに足る」根拠が薄弱であることに気づいたら、その誤りについてはきちんと正すことが大切であると考えています。


そもそも私はかつて創価学会の活動家として散々に「宗教には高低浅深がある」とか「邪宗の害毒」とか言って他宗を毛嫌いし、時には口汚く否定してきました。
また「弘安2年の戒壇本尊に繋がらなければ功徳はない」とまで言ってきました。
所詮それらは教団の教義の受け売りでしかなかったのですが、私自身がそのように他宗批判をしてきた自身の責任が回避し得るとは考えていません。


私はどんな信仰も否定しませんが、他の信仰者を悪し様に罵って自分たちの信仰だけを正義とする、独善的な態度は批判されて然るべきだと考えます。
私は「信ずるに足る」と人が信ずるものであれば、どんな信仰も尊重したいと思いますし、またその人自身が信仰の態度を改めて理性や文献的根拠に基づいて宗派を変えたり、信仰の対象を更新することはなんら問題ないと考えています。


「それは信ずるに足るのか」を検証するのは自由です。
そして「信ずるに足らない」と判断したら信仰の態度を改めるのも自由です。
信仰の態度を保留するのも自由です。
さらに思索を深めるのも自由です。
そして最終的に自身が選び取った信仰なのですから、その責任は自分自身に帰するということかと私は思います。





後世の贋作に過ぎない弘安2年戒壇本尊。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて弘安2年戒壇本尊が後世の創作であり、日蓮の作ではないということは、このブログで度々指摘させて頂いています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

「『御本尊七箇相承』から考える」

「『七箇相承』の書くべし」




戒壇本尊は相貌がまずもって『御本尊七箇相承』の指示と相違していますし、不自然な点が多いですね。


まず戒壇本尊には、日蓮真蹟本尊なら必ず記載されている年号の干支が存在しません。
日蓮は必ず干支を書いたことは、残された真蹟本尊から明らかです。しかしそれが戒壇本尊には存在しません。


次に御本尊両肩に書かれるはずの湛然の言葉である「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が存在しません。
ちなみに『御本尊七箇相承』では「上行・無辺行と浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭七分・有供養者福過十号と之を書くべし」と書かれています。
大石寺の相承で「書くべし」とされるものが、根本の戒壇本尊に書かれていません。



そもそも戒壇本尊は日蓮遺文中に全く言及されていません。さらに言えば日興も「戒壇本尊」という語には言及されていません。日道の『三師御伝土代』にも戒壇本尊への言及はありません。
文明14年(1482年)に小泉久遠寺他と大石寺との問答を記録する『大石寺久遠寺問答事』では問答が「大石寺本尊堂」で行われたことが記録されています(富要9-53)。しかしここでは戒壇本尊について全く言及されていません。つまり1482年までまだ戒壇本尊は存在しなかったと考えた方が自然かと思います。


「本門戒壇本尊」という語が最初に出てくるのは大石寺14世日主(在位1573〜1596)の『日興跡條々事示書』です。ここから考えて戒壇本尊の後世の最初の創作時期は恐らく16世紀後半、日主の周辺ではないかと考えることができます。今まで大石寺の歴史で文献に全く出てこなかった「戒壇本尊」の文字が14世日主になって突然出てくることは非常に不自然ですし、不可解です。





罵詈雑言も辞さない池田原理主義者。

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いつもありがとうございます。
さて最近のSNS上の議論でアンチ創価学会の方の中には少なからず、池田大作原理主義者というか、池田名誉会長を絶対視して、その他の考え方を頭ごなしに否定、非難中傷するしかできない方が少なからずいらっしゃいます。



問題と考えるのは、それらの方々が「自分のように池田名誉会長を絶対視しない人たち」に対して平気で侮蔑し、口汚く罵ることさえ平気と考える方が少なくないことです。


冒頭の画像でお分かりのように、口汚い言葉で罵り、あとは一方的にブロックされる方がおられるということは、とても憂慮すべきことかと思います。だいたい私は原田稔氏ら執行部になんら共感などしていません。池田大作とともに原田稔氏も徹底的に批判されるべきだと私は考えています。原田稔氏など典型的な池田原理主義者の一人としか私は考えていません。


というのは、彼らは池田大作氏を絶対視し、その思想の根幹としています。池田氏を絶対視する者たちが所詮自分が考えるように考えない者たちに対して、口汚い罵詈雑言をするならば、そもそも池田思想というのは何だったのかと問われる事態になろうかと思います。
つまり池田原理主義者は、言論問題や昭和52年路線での反省を無視して、池田氏が言うことなら絶対であり、それらは批判検証されなくてもよいと平気で考える、そう言う人たちなのか、またそのように考える人たちを事実上黙認する人たちなのかと問われるということです。



「『もっとん』さんのツイート」

「孤立する信仰と考えられない人たち」

創価大学閥と池田絶対主義」






三大秘法の完全な終了とは。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて昭和41年の池田大作会長(当時)による『立正安国論講義』では次のように述べられています。



「すなわち、日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了するのである。これによって、大聖人の三大秘法の威光は一段と輝きを増し、末法万年尽未来際までの平和楽土が実現されるのである。」
池田大作立正安国論講義』659ページ、創価学会、昭和41年)



すなわち池田大作氏の発言によるなら、正本堂の建立によって、三大秘法の建立は「完全に終了した」ことになります。
付言すれば、この講義の序で大石寺66世の細井日達は「会長池田先生の畢生の大講義の一つであると信じて序となす」と述べています。


では「末法万年尽未来際までの平和楽土」を実現しゆくはずの「三大秘法の建立の完全な終了」であった正本堂建立は、それ以降、いったいどういう結果になったんでしょうね。


第1次宗創問題、会長辞任、さらに第2次宗創問題で創価学会破門、さらには建立後わずか25年で正本堂は解体されました。
三大秘法の完全な終了後に、果たして日本は平和になったのでしょうか。日本経済は豊かになったのでしょうか。


そういう過去の総括、反省がないとすれば、創価学会大石寺宗門もまた、その時その時で都合の良いことを言い、そしてそれらは言いっ放しと批判されても仕方がないのではないかと私などは思います。



興風談所について。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「興風談所」についてです。



ちょうど創価学会の本尊模刻や昭和52年路線の頃に、これに異を唱える「正信覚醒運動」が起こりました。これが後の正信会の起源になります。ところが池田会長辞任の後も正信会系の人たちは創価学会批判を続けておりました。


加えて昭和54年、大石寺66世細井日達氏が亡くなり、阿部日顕氏が法主として登座することになりますが、この時相承がなかったとして一部僧侶が対決姿勢を強め、急進派として執行部と対立する事態となります。
阿部日顕氏は当時は創価学会との対立を回避しておきたい思惑もあり、結果として彼らは宗務院から処分され擯斥されることとなります。



ところで、正信会というと創価学会の人はまるで悪の権化のように負のイメージを持たれる方も多いようですが、実はこの正信会有志で結成された「興風談所」は、出版する書籍の質の高さから他宗派からも高く評価されています。
とりわけ興風談所から出版された『日興上人全集』や『日興上人御本尊集』(冒頭画像参照)など多く図版を取り入れ、緻密な実地調査の上に編集されており、日蓮宗各派からも高く評価されています。彼らはきちんと日蓮宗各派の寺に赴き、積極的に改定作業も行なっています。


また日蓮遺文のデータベース化にも積極的に取り組み、「桐」にプラグイン化した「御書システム」を研究者向けに無償でダウンロード配布まで行っており、有償ではCD-R版の配布まで行っています。


例えば彼らの研究の一例を挙げてみましょう。


日蓮遺文の『竜泉寺申状』は前半が日蓮の筆跡で書かれ、後半が他筆によって書かれていることが知られています。今までは大石寺59世堀日亨氏の見解で後半を日興筆と推定していました。ところが興風談所の研究員である菅原関道氏の詳細な研究の結果、後半は日興筆ではなく、正しく富木常忍の筆であることが確認されました(「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」『興風』16号所収、2004年)。



もちろん正信会と言っても決して一枚岩ではなく、その中にはさまざまな考え方を持つ方が混在しているので、安易な一元化は禁物ですが、少なくとも「興風談所」の出版物は学術的に至極真っ当で正攻法な研究姿勢に貫徹されており、また研究員のメンバーも日蓮遺文の解読の専門知識を持った研究者がきちんと揃っていることは認めるべき事実であるかと考えています。