気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

金烏と玉兎。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日、都内某所で大木道惠さんとお会いして、たくさーんおしゃべりしてきました。


大木道惠さんのブログ



ブログを少し読めばわかるように、博識で丹念に文献を読まれている方なのですが、会ってみると実に気さくで謙虚な方。話も面白くてあっという間に何時間も夢中になって話してしまいました! ありがとうございました! とても楽しかったです!



さまざまな話をしたのですが、ここではあえて「金烏と玉兎」というテーマに絞って書いてみたいと思います。



私が最も今疑問に思っていることは、なぜ日蓮曼荼羅不動明王を書く際に梵字の「カーン」ではなく「バン」字を使うのかという点です。このことについてはブログでも書きました。


梵字『バン』について」


この記事の中で、私は「バン」字が地水火風空の水大「バ」に大空点を打った「バン」であり、水大の徳を表現したのではないかという臆断をしています。
ところが、大木道惠さんの指摘は非常に鋭いものでした。確かに大木さんご自身も「なぜバン字なのか」ということに関してはわからないことを率直に認めておりました。
しかしその後の発言が非常に示唆的でした。


「『不動愛染感見記』から考えるに、例えば『金烏と玉兎』のことを考えてみなければいけない。そうでなければ『不動愛染感見記』の真意はわからないでしょう。」


というものでした。
私は『不動愛染感見記』(真蹟:保田妙本寺)の存在は知っていましたし、何が書かれているかも存じ上げておりましたが、そこに描かれた挿絵のことなどさして注目などしていませんでしたし、そこに描かれている2種類の生き物のことなど、なおのこと全く関心など持っておりませんでした。



冒頭の2枚の画像を見てほしいのですが、最初の画像は「愛染明王」を描いたものであり、愛染が太陽の化身であることを表現しており、そこには「金烏」(きんう)と呼ばれ三本足を持つとされる「八咫烏」(やたがらす)が描かれているんですね。


八咫烏とは神武天皇を導いたとされる導きの神であり、サッカー日本代表のエンブレムでも描かれている三本足のカラスのことです。これは「金烏」と呼ばれ、太陽の化身であるとされています。



同時に「不動明王」に描かれているのは月の絵であり、月に住んでいるとされる「玉兎」(ぎよくと)と呼ばれるウサギが描かれています。
「玉兎」は「金烏」と対の概念とされるものであり、月を示しています。



つまり日蓮が不動と愛染で表したものは、例えば「金烏と玉兎」に見られるような日月の化身など多義的な要素を孕んでおり、それらのヒントが示されている『不動愛染感見記』の絵を考察しないことは、曼荼羅の義を考察するに関しては画竜点睛を欠くことになるというご指摘だったんですね。


このご指摘には思わず唸ってしまいました。
確かに本来曼荼羅というものは絵によって表されるものであり、それらの絵がきちんと遺されていることもきちんと考察しなければ、それは曼荼羅の義を一面的に見ることに確かに繋がるでしょう。なお大木さんはこの絵そのものも日蓮自身の筆によるものと考えておられました。










家庭訪問。









いつもみなさん、ありがとうございます。



さて最近、創価学会は「励まし週間」と称して会合の数を減らして幹部が率先して家庭訪問に出向くということを推進しているみたいですね。聖教新聞にも原田会長やら長谷川理事長やらが会員の家を訪問する写真が掲載されています。



彼ら幹部陣は、家庭訪問の推進をしているように見えます。
けれど元活動家の私から言わせたら、家庭訪問ってのはそんな生易しいものではありません。


私が青年部の頃、部員さんの家庭訪問をする時は顔も出してくれない、怒鳴られる、水をかけられる、罵声を浴びせられるなんてのは普通でした。そういう目に会う度に使命感を感じて勇んで家庭訪問をしていたものですから、宗教というものは変なものです(笑)。



そういう中で、少しずつ家族や本人と関係を築いて仲良くなっていくというのはとても大変で根気のいる作業です。
本人を騙そうとすれば、向こうはすぐに気づくものです。そうなれば二度と会ってなどくれません。


私は部長時代、みんなで楽しいことをしたいといつも考えていました。みんなでカラオケに行ったり、映画を見たり、食事に行ったり、ソフトボールをやったり、いろんなことをしました。
私は若い頃から「宗教が単に宗教活動をするだけの組織だったら、そんなもの要らない」と思っていました。それは多分に楽しく活動をしていた母の影響が強かったのだろうと思います。


母も婦人部で昔はよく家庭訪問をしていました。私と母が活動家時代、もっとも取り組んだ学会活動はまさに「家庭訪問」です。
おみやげやお菓子やいろんなものを持って家庭訪問したものです。「皆でご飯食べよう」とか「寒いからこれ食べてね」とか肉まんをあげたりしましたっけ。家庭訪問ってもっと心と心が通うように必死になってやってたものです。


みんなで焼肉パーティやろうと決まると、部員さんで食材を持ち込んでわんさか食べました。楽しかったですね。信心の話は一切抜き。当時の母は豆から挽いたコーヒーを淹れるのが上手でとても美味しかった。部員さんからも評判が良かったものです。


人は楽しいところにしか出向こうとはしません。自ら利用されるために行く人などいないはずです。
私が家庭訪問を好んでやっていたのはたくさんの仲間を作って皆で遊ぶためです(笑)。組織に数字をあげるためでもありませんでした。
活動家だった当時から、成果というのは自然に出るもので無理に出すものではないと考えていましたし。


現在の創価学会の組織は、上から打ち出される方針をどう処理するか、高齢化して目減りする活動家の中で、どうやって数字をクリアするかで、なすりつけあいのような状況にさえなってきています。
現場で工夫する智慧も体力もなくなってきているんですね。だから無理矢理に新聞の営業や贈呈をやってお金を使ってしまったり、強引にセミナーに友人を連れ出してドン引きされる事例などが増えているような気がします。
じゃあ、法華講さんはどうかというと、ほとんどの活動家メンバーが元創価学会員さんですから、口を開けば創価学会の悪口ばかり。汚い言葉ばかり使うので思わず耳を塞ぎたくなるようなことばかりです。



家庭訪問というのはその場の一回だけで終わるものではありません。根気のいる作業ですし、地道で時間と労力を必要とします。
さらに言えば、私は若い人が全然いなくなってしまった現在の創価学会になんの魅力も感じていません。現在の地区組織に参加したところで、地方などほとんど内実は老人会の集まりみたいになっています。平均70歳前後のおじいさんとおばあさんの集まりで何ができるでしょうね。


考え方は硬直化し、教義も破綻し、組織は高齢化し、活動のメインは選挙活動と新聞の営業、そんなところに誰か友人や部員さんなんかを連れ出そうなんて私は思いません。
どうせ家庭訪問するなら、私は組織は一切抜きで自分の仲間作りをしたいですね。創価学会とも大石寺とも縁を切る仲間作りといったところでしょうか。













虚空蔵菩薩と伊勢神宮のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は、とある読者の方からの質問に答えた記事になります。


日蓮がどこかの神社か何かに『日本第一の智者になしたまえ』と祈願していたように聞いたのですが、これは事実ですか?」


正確に言うと神社ではなくて安房鴨川の清澄寺です。ここで日蓮が幼少時から虚空蔵菩薩に対して「日蓮を日本第一の智者となしたまえ」と祈願していたということが、複数の遺文に見ることができます。
真蹟現存のものは存在しませんが、身延に真蹟がかつて存在していたことが知られる身延曽存の『清澄寺大衆中』には次のようにあります。


「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし」
創価学会版御書、893ページ)


この「日本第一の智者となしたまえ」という表現は、他にも真蹟不存ながら『善無畏三蔵抄』『破良観等御書』にも存在します。


まあ神社ではありませんが、日蓮が幼少時から虚空蔵菩薩にお参りして、そこに祈願していたことは一般によく知られています。


それにしても、虚空蔵菩薩に願をかけていたことは日蓮の遺文を読んでいれば、すぐにわかりそうなことなのですが、大石寺の信徒さんはそう言ったこともあまりご存知ないということなのでしょう。ご質問を頂いて若干驚いていました。


それから日蓮本人の神社「参拝」の件ですが、これは正直よくわかりません。
例えば『種種御振舞御書』(身延曽存)には龍ノ口に向かう際に鎌倉八幡宮に向かって「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叱責する場面がありますが、これは刑場に向かう際の発言で参拝とは言えないでしょう。


加えて比叡山に遊学の最中、建長5年に日蓮伊勢神宮に参拝したという逸話がありますが、これを裏付ける文献を私は見出していません。ただ伊勢神宮の近く、伊勢市倭町に「日蓮上人誓いの聖跡」と称された井戸と宝塔が存在することは事実です。
この説明板に書いてあることをここに引用してみます。


日蓮上人(1222〜1282)は、鎌倉・比叡山などで修行し、仏法の真髄は『法華経』にあることを悟りました。建長5年(1253)関東下向の途中、伊勢神宮内院と言われていた旧常明寺(倭町)に参籠し、境内の井戸で潔斎して
我  日本の柱とならん
我  日本の眼目とならん
我  日本の大船とならん
の、三つの誓いを立て、それを皇大神宮誓願いたしました。この年、日蓮宗は立教開宗されました。」


史跡のこの説明板の記述を信じるならば、日蓮は建長5年に確かに伊勢神宮に参拝して、広宣流布の誓いを立てていることになります。ただこの誓いの言葉は佐渡以降の『開目抄』の引用であり、立教改宗前にこれらの誓いをすでに立てて伊勢神宮に誓ったのかというと、私には若干疑問が残ります。





追記:
なお日興門流の神社参拝の問題については、いつか別にきちんと記事を書きたいと考えてはいます。
いつもありがとうございます。










ユゴーの文体と『人間革命』の文体。






いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は小説『人間革命』(旧版、全12巻)の文体についてです。


以前からこのブログでも、また他のブログの方も多く指摘されていることですが、この旧・小説『人間革命』は大部分が篠原善太郎氏による代筆であると言われています。
事実、創価学会は直筆の原稿全てを公開していませんし、版を重ねる度に改竄・削除等がなされており、本来の原稿を重視しているとはとても思えません。


加えて、ここで指摘しておきたいことは、篠原善太郎氏の文体です。
私は現在新しく出ている小説『新・人間革命』よりも、この旧版『人間革命』の方がはるかに読み物としては面白くできていると思います。


篠原善太郎の『人間革命』では、ストーリーの描写の後、社会情勢や歴史的背景などが突然入り込んできます。いわば読者はストーリーに一見関係がないと思える歴史や政治、社会等について読まなければならないことになるのです。
余談ですが、私がまだ大学校生時代、『人間革命』全12巻の読了が課題であった頃、これらの社会情勢の部分を読みにくいとして、なかなか読み進められないでいた部員さんが周りに多かったのを思い出します。私がよく勧めたのは「全部飛ばしちゃえばいいんじゃない」という荒業でしたが(爆)。



ところで、この「ストーリーとストーリーとの間に社会情勢や歴史・政治の客観的な描写を挟む」というスタイルは誰のスタイルなのでしょうか。
これはズバリ、もうヴィクトル・ユゴーだと思っています。
つまり小説『人間革命』は、その文体がユゴーの『レ・ミゼラブル』によく似ているのです。


例えばジャン・ヴァルジャンが革命の戦火からマリウスを助け出して下水管に逃げ込む直前に、『レ・ミゼラブル』では突然パリの下水道の歴史について描かれます。ストーリーと何の関係もないと思っていると、実はパリの下水道がいかに広大で複雑にできているかということがわかり、ジャン・ヴァルジャンの歩いた苦労がじわりとわかる仕掛けになっています。


篠原善太郎代筆とされる、この『人間革命』も、戸田城聖出獄後の創価学会再建が語られながら、戦後の日本の混乱や社会情勢が交互に描かれ、その文体はユゴーほど成功していないとはいえ、とてもユゴーのスタイルに似ています。


創価大学の高村忠成氏はユゴーの文学について次のように述べています。


「しかし、19世紀に入ると、人間が主体となり世界像を構築するようになるといえます。じつに世界を思い描く主体は人間であるという考え方が確立してくるのです。こうした人間観を代表するのがユゴーでした。(中略)こうした人間観に立つユゴーが強調したのは、最後は人間革命でした。彼は文学、社会、政治の改革を志向しますが、しかし、その究極は人間革命であると主張するのです。」
(高村忠成『ヴィクトル・ユゴーとフランス文学』創価大学通信教育部論集第15号より)



私は篠原善太郎氏が『人間革命』の代筆をする際に、相当程度にユゴーの文体を意識したことが十分にあり得ることだと考えています。仮定の話ですが、御大池田氏、そして信濃町は人間革命思想の現代的な展開のために、ユゴーの文体や思想をある程度咀嚼し、それをヒントにして教団の思想を構成していったのではないかと推察しています。






参考文献:
高村忠成『ヴィクトル・ユゴーとフランス文学』創価大学通信教育部論集、第15号所収、2012年8月

釈迦を本尊とすること。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて『観心本尊抄』に添えて書かれた『観心本尊抄送状』には次のような一節があります。



「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」
創価学会版御書、255ページ)


仮に大石寺創価学会が言うように

「龍ノ口・佐渡以降、日蓮は本仏としての本地を現し」
「本来、日蓮が師で釈迦が弟子であるという末法の本仏の自覚を持つに至った」

とするなら、なぜここで日蓮が霊山浄土で釈迦仏の顔を拝したいと言っているのかがよくわかりません。


『報恩抄』においては

「答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」
(同328ページ)


とありますが、どうしてここの「本門の教主釈尊」を大石寺系教団の人たちが「末法の本仏・日蓮大聖人のことだ」と強弁されるのかが私にはよくわかりません。


『神国王御書』には

「其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」
(同1525ページ)


と書いてあるように、日蓮が生涯伊豆流罪以降、釈迦仏像を持ち、それに題目を唱えていたことは種々の文献からも明らかです。


日蓮を真蹟から読み解くと、日蓮はあくまで釈迦の使いとしての立場で一貫していることがよくわかります。なぜそれを捻じ曲げ、わざわざ真蹟にない虚像を日蓮に与えようとするのかが私にはよくわかりません。









わけのわからないこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて、私は難しいことを難しく語ることがあまり好きではありません。
私がモットーにしているのは「わかりにくいことも、自分がわかったことなら、なるべく自分の言葉でわかりやすく言い換えること」です。


創価学会大石寺系教団の幹部は、日蓮の遺文についてあまり調べようとされず、それでいてなぜかケムに巻くような返答をすることがしばしばです。

「君ね、御書を読むだけじゃ成仏できないんだよ、仏法は実践だよ。君は二乗根性なんだ」

あの、法華経って「二乗成仏」が約束された経典なんじゃなかったんですかね(笑)。


もうそんなのばっかりです。




以前「反証可能性について」という記事で、読者の方からもご指摘を受けましたが、結局信仰の問題に関して多くの教団幹部がアドホックな仮説を付け加えることしかできず、論理的な反証ができなくなっているのかもしれません。



アドホックな教団幹部の言葉、わけのわからない指導で記憶に残っているものをいくつかあげてみたいと思います。



「願いが叶わないのは祈りが足りないからだ」
折伏をしないと信心はわからない」
「お山にご奉公するという気持ちで信心をするのです」
「全ては信心で受け止めるんだよ」
「生まれ変わっても師匠とまた同じ場に生まれてくる」
「初心の功徳が出た」
「宿業は今世で軽く受けることができる」
「今、苦しいのは過去世の業が出てる」
「師匠は結果しか必要としてないんだよ」






他にもたくさんありますが、書いているうちにやる気がなくなってきたので(爆)、このへんでやめます。


信仰の問題を語ると「わけのわからない」ことを語る人が大石寺系教団の方には多くいます。とりわけ創価学会に多いのは「民衆仏法」とか「宇宙」とか「生命」とか、日蓮の教説とは何の関係もないことを語り出すところです。





そのようになんら説得力を持たない、謎の教義で人をケムに巻いている姿は、健全な宗教であると少なくとも私には思えません。










池田大作と原田稔は対立していない。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さてネット上には、創価学会の元活動家でありながら、執行部・信濃町、とりわけ原田会長たちを批判し、池田名誉会長を絶対視する、いわゆる「池田原理主義者」のような方たちがいることも事実です。
 
 
彼らは池田氏の体調が良くないことを利用して、氏の本意に沿わないことを傍若無人に行っており、池田氏は何も言えない状態であるというような議論を展開していますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
 
 
例えば、2013年11月6日の聖教新聞では、御大・池田大作氏が、創価学会総本部で「落慶入仏式を行った」ことが報道されていました(冒頭の画像参照)。
この画像を見ればわかるように、原田稔氏や長谷川重夫氏がきちんと池田氏とともに読経唱題をしており、池田氏はここできちんと落慶入仏式の役割を果たしているように見ることができます。
 
 
もしも2013年11月の時点で、池田氏が原田氏ら執行部になんらかの意見の相違があるのであれば、氏がここで原田会長らとともに信濃町総本部の御本尊に読経唱題するという事態が不自然になるかと思うんですね。
仮に池田氏が原田氏らに教義上の不満や違和感を感じているのなら、これらの入仏式に参加しない、あるいは異論を述べる、等々が考えられると思います。しかし事実はそうではなく、池田氏はきちんと原田会長らとともに唱題をしているのです。
 
 
一部の池田原理主義者たちの述べるように、池田が絶対的な師で、全ての悪の元凶が原田稔氏ら現在の執行部にあるとするなら、ここで池田氏が原田氏とともに勤行をしていること自体が「謗法与同」と同義であり、少なくとも2013年11月頃までの池田氏は原田氏とともに信濃町総本部の絶対化に手を貸した「謗法与同」の者と同じかと思います。
 
 
 
とすれば、自然な推論として、池田氏と原田氏ら信濃町執行部はなんら対立していないとする推察の方がより自然であり、より蓋然性が高いと思います。