気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日主の文書中の「戒壇本尊」





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこのブログで、何度となく大石寺奉安堂の戒壇本尊が後世の偽作に過ぎないことを述べています。


「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」


さらに付言すれば、日興・日目から日道に対して板あるいは紙幅の戒壇本尊が授与された形跡は見られません。


では大石寺の歴史で、最も明確に「戒壇本尊」という名称が出てくるのはいつの文献なのでしょう。
それは大石寺14世日主(1555〜1617)の『日興跡條々事示書』です。これは日主本人の正本が大石寺に現存しています。


「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺狀ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付嘱分ナリ。大石寺者御本尊ヲ以テ遺狀被成候、是則別付嘱唯授一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、從興師正應御本尊法體御付嘱例者上行薩埵定結要付嘱大導師以意得如此御本尊處肝要ナリ。從久遠今日靈山神力結要上行所傳之御付嘱、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱全體不色替其儘ナリ。八通四通は惣付嘱歟、當寺一紙三ケ條之付嘱遺狀者文證壽量品儀ナリ、御本尊者久遠以來所未手懸付嘱也。」
(日主『日興跡條々事示書』日蓮正宗歴代法主全書第1巻、459ページ)

以上が日主の雑録中の『日興跡條々事示書』全文ですが、それまで大石寺の歴史に全く出てこなかった「本門戒壇本尊」の言葉が突然日主から出てきます。


で、これが出てくる背景を見てみると、当時の重須本門寺(北山)は西山との争いで、武田勝頼の軍勢に押入られ、多数の文書を失ったことは史実からもよく知られています。この時、北山側は本門寺本堂に懸けるべきとされていた本尊も失ってしまいます。


つまり本来、日興や日目から日道や日時への相伝の正当性が担保できなかった大石寺方が、この時期に自山の正統を主張するために、戒壇本尊なる考えを持ってきたことは想像に難くないかと思います。


戒壇本尊が後世に創作されたと考えると、その首謀は、大石寺日主、あるいはその周辺なのではないかと推察されることはさほど不自然な推論であるとは私は思いません。





『貞観政要』のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『貞観政要』(じょうがんせいよう)についてです。




ご存知のない方のために簡単に説明しますと、『貞観政要』とは唐の太宗とそれを補佐した家臣たちとの政治的な問答集です。太宗の死後40〜50年後、呉兢(ごきょう)という名の史家により編纂され、いわゆる支配者のための帝王学として読まれてきました。


日蓮はこの『貞観政要』を常に手元に置き、ここから自身の思想を練り上げていった可能性が高く、日蓮自身が直筆で残した『貞観政要』の写本が北山本門寺に現存しています。



Twitterでも書いたように、日蓮の思想には『貞観政要』の影響が強いです。


例えば富木常忍の忘れ物のことを記した『忘持経事』(真蹟中山)には「桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり」(創価学会版御書全集976ページ)とありますが、これはまさに『貞観政要』中の「丘見桀紂之君。乃忘其身』(ちくま学芸文庫版、105ページ)のことを述べているのでしょう。


他にも『貞観政要』の影響は日蓮遺文の各所に多く散見されます。



例えば『富木殿御書』(真蹟中山)には次のような一節があります。


「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」
(前掲書969ページ)


全く同様の一節が『貞観政要』にもきちんと見られます。


「聖人の安きに居りて危うきを思う所以は、正にこれがためなり。安くして而もよく懼る。あに難しとなさざらんや」
(前掲書44ページ)


簡単に『貞観政要』の訳を書きますと

「昔から聖人は『安きに居りて危うきを思う』のは、これがためではあります。国が安泰なときにこそ心を引き締めて政治にあたらなければなりません。それで、私は困難であると申し上げたのです。」
(同43ページ)



繰り替えしになりますが、『貞観政要』は帝王学の書物です。つまり支配者層、そしてその家臣が読むべき本です。
日蓮の思想はこの『貞観政要』を基にし、国が安泰であるために、自身が真の家臣として国家を救済すべきだという視点に主眼が置かれています。
つまり『立正安国論』の思想、それを鎌倉幕府に提出する発想は、この『貞観政要』由来のものだと言えるかと思います。


意外なことですが、この『貞観政要』をきちんと読むことで、日蓮遺文の随所の意味がよく理解できるようになるかと思います。





参考文献:
呉兢『貞観政要』守谷洋訳、ちくま学芸文庫、2015年(初出1975年)




追伸:
ところで、真蹟不存ながら『佐渡御書』の末尾、追伸の部分にこの『貞観政要』の名前が出てくるのは興味深いです。
引用してみましょう。


外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし」
(『佐渡御書』前掲書961ページ)


簡単に通解しますと、


外典等の『貞観政要』をはじめとする外典の物語や八宗の相伝書等を送ってくださいませ。これらがなければ手紙も書けないので、ぜひとも送って頂けるよう重ねて申し上げます。」






昭和52年路線の背景を考える。





いつもみなさん、ありがとうございます。
今回は創価学会の「昭和52年路線」に関する、西山茂氏の論考の一部を取り上げ、当時の創価学会と妙信講(現在の顕正会)、そして大石寺との間で何があったのかを考える契機としたいと思います。



最初に西山茂氏の論を引用してみます。



創価学会と宗門が『言論出版妨害問題』を契機として国立戒壇論を放棄したことに対して、根本主義の立場をとる宗内の一部僧俗、とりわけ妙信講(現在は顕正会)から、鋭い批判の声があがった。しかし、『政教一致』を非難する厳しい世論を前にして再び国立戒壇論の立場に戻れる訳もなく、ここに両者は、妙心講問題という難題を抱えることになった。そして、これが、やがて創価学会をして、後述するような『昭和五十二年路線』と言われる在家主義色の濃厚な教団自立化路線へと向かわしめる契機となった。妙信講問題とは、妙信講を中心とした宗内の根本主義者が、国立戒壇論の正当性をなお主張して、それを放棄した創価学会および宗門と激しく対立した問題を指す。しかし、創価学会をして、『昭和五十二年路線』へと向かわしめたものは、戒壇論を巡る妙信講との対立そのものではなく、むしろ、教学上の正邪の裁定権を握っていた法主の、同問題への対応ぶりであった。すなわち、第六十六世法主細井日達は、それまでは創価学会とともに国立戒壇論を否定し、また、『正本堂』の建立が実質的な『事の戒壇』の建立であるとする『正本堂供養趣意書』等における創価学会の主張を黙認してきたにも関わらず、いざ妙信講問題が起こると、今度は立場を変えて、創価学会と妙信講との間の教学論争を第三者的に裁こうとした。しかも、その裁定は『定見なく、ある時は妙信講に、ある時は創価学会にと軍配を上げ(る)』ようなものであった。
こうして、創価学会は、国立戒壇論の是非と『正本堂』の教学上の意義を巡って、昭和四十五年から四十七年の間に、法主の面前での対論も含め、十数回に亙って妙信講と対論させられ、その結果、昭和四十七年の十月三日には『正本堂』の完成が直ちに『事の戒壇』の建立を意味しない旨の理事長のコメントを同会の機関紙『聖教新聞』紙上に掲載せざるを得なくなるなど、同会の存在と行為の正当化が著しく困難になる事態に直面した。上記のような法主のボナパルティックな対応は、宗門経済に対する絶大な貢献によって実質的になされていた創価学会の宗門支配に危機感を抱きはじめた法主が、戒壇論の変更に対する妙信講の異議申し立てを好機に、また、自らの教学上の裁定権を武器に、宗門の権威を同会に認識させ、政治的に牽制しようとする意図によるものであったと思われる。しかし、こうした法主の態度は、妙信講と創価学会の双方に、法主に対する抜き難い不信感を与え、やがて妙信講の解散処分(昭和四十九年八月)と創価学会の『昭和五十二年路線』とを招来することになる。」
(西山茂「正当化の危機と教学革新」『法華仏教研究』第3号所収、法華仏教研究会、2010年4月)




国立戒壇論の放棄については、確かに言論問題以降、創価学会大石寺もそれを放棄するという立場であったはずなのですが、なぜか昭和45年〜昭和47年にかけて創価学会と妙信講は何度となく対論をしなければならない事態に至ったことは事実です。
昭和45年9月11日に一度合意に至り「御報告」と題した文書を創価学会幹部と妙信講側の連名(この時のメンバーは創価学会からは和泉覚森田一哉秋谷栄之助、妙信講からは浅井甚兵衛、浅井昭衛)で、細井日達に提出しています。ところがこれ以降も何度となく創価学会は妙信講と対論せざるを得ない状況にあったようです。


創価学会が「52年路線」に転轍することになったのは、池田氏の考え方もあり、在家主義的な色彩を強め、大石寺そのものを実質的に創価学会の儀典部扱いにしておきたかった故かと思いますが、その背景として「戒壇論の変更に伴う妙信講の異議申し立てを好機に」「宗門の権威を同会に認識させ、政治的に牽制しようとする意図」が大石寺側にあり、そこから創価学会側が自立化を図ろうとしたという推察は、それなりの説得性を有していると私には思えます。






日天・月天のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日蓮の「日天・月天」観について、考えてみたいと思います。


多くの大石寺系信徒の方、創価学会員さんはかつて初座の勤行で諸天供養をした際に大日天と大月天はともに法華経守護の諸天善神と教わったかと思います。


ところでこの日天・月天というのは、実は真言密教で説かれたものであり、日蓮が実はこの擬人化された日月観を持っていたと言えば、驚かれるでしょうか。


実はこのことを日蓮が述べている真蹟遺文が中山法華経寺に現存します。
それは『日月之事』という御書です。創価学会版御書全集ですと、599〜601ページに全文が掲載されています。


簡単に一部を紹介してみましょう。


            /  誓耶后
大日天
            \  毘誓耶后

                         /  麻利支天女
             乗輅車 ー  九曜
                         \  七曜


                    二十八宿
大月天         乗
                    十二宮                     」

(『日月之事』創価学会版御書599ページ)



パソコンのフォーマットの関係で、正しく表示されないかもしれませんが、これはいわゆる「つりもの」(図表)なのであって実際に御書を見てみることをお勧めします。



さてここで日蓮は、日天が「馬の引く車に乗り二人の后を従えている」としています。
また月天は「鳥に乗っている」と表現しています。この記述は法華経ではなく、真言大日経疏巻十や胎蔵界曼荼羅に描かれているものです。


日蓮が日月を擬人化して見ているというのは、鎌倉時代の時代的な制約であり、仕方がないことかと思いますが、それを擬人化する際に真言の記述を根本としていることは興味深いことです。


この日天月天に関する日蓮の記述は他にも『四条金吾釈迦仏供養事』にも見いだすことができます(真蹟断簡:鎌倉妙本寺、身延曽存)。


「大日天子と申すは宮殿七宝なり其の大さは八百十六里・五十一由旬なり、其の中に大日天子居し給ふ、勝無勝と申して二人の后あり左右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天まします・七宝の車を八匹の駿馬にかけて呼ん天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う」
(同1145ページ)




日蓮の教義の構成には、真言の影響が非常に強いことは多くの識者が指摘していることですが、日蓮法華経を根本にする時に一切の経典の神が法華守護の役割を果たすというような考え方を採っていまして、他宗を批判しつつそれらを教理の内側に摂取してしまうという、"諸教包摂性"のような特徴を持っていると私は考えています。














曼荼羅の「日蓮聖人」という書記法。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて大石寺に伝わる『御本尊七箇相承』の指示と、実際の大石寺法主曼荼羅書写の実態は乖離があることは何度となくこのブログで指摘してきました。



「『御本尊七箇相承』から考える」
「『七箇相承』の『書くべし』」


加えて今日考えてみたいのは「日蓮在御判」の書き方です。
上記の「『七箇相承』の『書くべし』」でも指摘させて頂きましたが、実は大石寺第3祖日目の本尊は「日蓮御判」ではなく「日蓮聖人』と書かれています。
具体的には正中3年卯月書写本尊(小泉久遠寺蔵)と元弘3年10月13日書写本尊(柳目妙教寺蔵)で、日目は「日蓮御判」ではなく「日蓮聖人」と書いています。


これは『御本尊七箇相承』の「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(富要1-32)と相違します。


この「日蓮聖人」という曼荼羅への書き方は日目だけに特徴的なものかと思っていたのですが、よく調べてみると大石寺の他の法主にも「日蓮聖人」という書き方をする法主がいたことがわかってきました。


その代表例が実は大石寺6世日時です(冒頭1枚目の画像参照。応永11年卯月12日、宮野妙円寺蔵)。
冒頭の画像でよくわかると思いますが、日時はここで「日蓮聖人」と「日蓮在御判」を並列させる不思議な書き方をしています。
日時の前にあたる大石寺5世日行の書写本尊は確認した限り「日蓮在御判」でしたが、なぜか日時はこの「日蓮聖人」と「日蓮在御判」を並列させる書き方をしていたことがわかります。


次に大石寺8世日影の書写本尊です(冒頭画像2枚目を参照。応永20年8月、柳目妙教寺蔵)。
ここでも明確に「日蓮聖人」と書かれていまして、その真下に「在御判」と書かれる特異な書記法を採用しています。


私の確認した限り「日蓮在御判」と書くべき場所に「日蓮聖人」と書いている大石寺法主は第3祖日目、6世日時、8世日影になります。


つまり少なくとも8世日影(1353〜1419)の頃までは大石寺曼荼羅本尊の書記法が確定しておらず、『御本尊七箇相承』もこの時にはまだ存在しなかったことが推測できるかと思います。




日華・日仙の御本尊書写のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は「御本尊書写が大石寺の時の法主に限る」という大石寺宗門の見解を簡単に検討してみたいと思います。


まず大石寺は次のように説明しています。


「御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。『本因妙抄』に、『血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり』と仰せられています。また第五十六世日応上人は『金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず』と仰せです。したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。ただし御隠尊猊下が御当代上人の委託を受けて、御本尊を書写されることはあります。」
日蓮正宗法義研鑽委員会編『創価学会ニセ本尊破折』134ページ、日蓮正宗総本山大石寺内事部、平成6年)


整理すると「時の法主が在世中に相承をまだ受けていない一介の僧侶が、その高徳や博学に関わらず、御本尊書写をすることは今まで一度もなかった」ということになります。



ところが、大石寺の歴史を繙いてみれば、例えば日興の在世中に日目も御本尊書写をしていますし、またそれ以外の本六・新六の弟子たちの中にも御本尊書写をしている事実がわかります。
具体的に挙げてみましょう。


①寂日坊日華書写本尊、正中2年(1325年)6月3日、下条妙蓮寺蔵

②新田卿日目書写本尊、正中3年(1326年)卯月、小泉久遠寺

③摂津公上蓮坊日仙書写本尊、元徳4年(1332年)、讃岐本門寺塔中・中之坊蔵



他にもあるのですが、とりあえず三つだけ挙げてみます。
確認ですが、日興の寂年は1333年です。

つまり


①日華書写本尊は日興没の8年前

②日目書写本尊は日興没の7年前

③日仙書写本尊は日興没の1年前


ということになります。
このうち②日目は日興の跡を継ぐ大石寺3世ですが、①日華は大石寺寂日坊と下条妙蓮寺の開基であり、③日仙は大石寺上蓮坊(百貫坊)と讃岐本門寺の開基です。


つまり日華も日仙も大石寺が主張するところの「血脈付法」の弟子ではないはずです。
このことについて、大石寺や日興、日目等がこれらを批判したという史料は存在しません。
つまり先ほど挙げた「まだ相承を受けていない一介の僧侶が法主在世中に御本尊書写を行うことはあり得ない」というのは、大石寺の後世に作られた教義に過ぎず、日興在世中に「唯授一人の血脈」という法義など存在しなかったということになります。




とあるブログの方への回答。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は、とある方のブログの書き込みにお答えする内容でやや私的な内容になってしまいます。すみません。



昨年2017年の収穫を総括される中で、それが私の「気楽非活ブログに出会えたこと」であるとお答え頂いたことに本当に感謝します。確かに正確に申しますと、このブログの開始は一昨年2016年からでした。


「それが静かなスタートだったが、回を重ねる毎に恐ろしく濃いブログになり、毎日、日付が変わると、気楽非活のブログを訪問せずには寝られなくなった」とのこと。
あまり気にせずに寝てくださいませ(笑)。


確かに当初は「気楽に語ろう」と銘打ったこともあり、記事の内容もややお気楽でした(現在もなお私の気楽な"のほほん"とした性格は大して変わってないかもしれませんが・笑)。
私は青年部時代に日蓮の遺文を読むことに明け暮れ、また広宣部・言論企画部で他宗対策に深く携わったこともあり、読むことだけは人一倍好きでした。
ただもちろん、そんなに学問的にきちんとした例証ができないことも多く、自身の力のなさ、歯痒さを感じていたことも事実です。
ですから本当に「気楽に」書ければいいなと考えて、ブログのタイトルにしたのです。



最初の最大の理解者は長井秀和さんでした。
その後、長井秀和さんと個人的に会う機会も頂き、一緒に創価学会について自由に語り合うイベント等もやりました。驚くことに、この集まりでさまざまな問題意識を抱えている人が多くいることに気づき、改めて学ばされることもたくさんあったんですね。


私を「ものすごく専門的な教学の知識と、草創期の活動家の父を持ち」とありました。私はともかくとして、確かに父は教学に関しては本物でした。
父のことをここであまり詳しくは語れないのですが、父と教学の面で話した時に当時20代の私はバッサリコテンパンに言い負かされてしまったものです(笑)。
都内には父に指導を受けて、父を尊敬していた人も多かったようです。東京から離れた後も、わざわざ指導を求めて父を訪ねにやってきた人がいたことを私は子ども心に覚えています。



「広宣部でお寺に潜入とあったが、実際、寺の出入りを撮影されたことがある」とのこと。失礼な行為を代わって謝罪したいと思います。私もそんなことは平気でやっていました。
現在の法華講は出入りのチェックが厳しいそうですが、もしも現在でバリバリの広宣部員が存在するなら偽装工作して平気で退会者を装って勧誡を受け、そしらぬふりで寺に潜入することなど、朝飯前だと思います。それくらいの人たちがたくさんいましたから。


「気楽非活のブログは感情を抑え、事実を並べて、あとは読者に判断を委ねる姿勢がよい」とのことですが、これは私自身が気をつけている点でもあります。
法論まがいのことをすると、経験上互いが「思うこと」のぶつけ合いになります。それでは会話は進展しませんし、こと宗教に関しては不毛な論争になることが多いです。
ですから、書いてあること、史料や確実な史実に基づいて語る、その上で歴史を構成するというのが、正しい歴史学の在り方であり、それを理想とする時に自ずとある程度の一致点を見出せるのではないでしょうか。


「感情を排除して、ブログを書けるようになるまで、気楽非活さんの中に嵐が吹き荒れた時もあったのではないか」とのことですが、確かにその通りです。"そこまで書いていいのか"という煩悶もありましたし、読者からも"そこまで書くことはないのではないか"というご批判を頂いたことも事実です。ただ私の中で最終的な基準になったのは、やはり遺文であり、経典であり、書いてあることです。遺されたものは動かせませんから、動かせない事実から真実を描き出すことでしか私は前に進めないと考えていました。今でもその気持ちに変わりはありません。



「気楽非活さんのお陰で"法華経・御本尊・宗門・日蓮仏法に関する闇雲な畏怖心"から卒業できた」とのことですが、とても嬉しかったです。
仰る通りで、本来宗教は人の心を縛り付けるものではなく、人の心を自由にするものでなければならないでしょう。
教団が自由に思索することを軽視したり、考えることを止めるようなら、それは真実の信仰であるとは言えないと思います。
そのような煩悶を越えて求めた時に初めて、自身の生きるべき羅針盤のようなものを掴めるのではないでしょうか。
どこかの教団の形骸化した教義を信じて、どこかで思索することをやめてしまえば、考えないで空想のドグマに縛り付けられ、借り物の真理で満足するだけの人間に成り下がります。宗教にはそのような醜い側面があるのだということを、私たちは創価学会員として、また法華講員として散々に見てきたはずです。
私はそんなのはもうたくさんです。


凝り固まった教義で他人を罵倒し、親類を傷つけ、悲しい思いをさせるのは私の世代まででもう充分です。
人を罰という言葉で縛り付ける教義などもうたくさんです。



私は父も母も亡くしました。親類もみな亡くなりました。親類同士で骨肉の争をしてきたことを私は幼少時からこの目で見てきました。
両親の心中の痛みを思うと、私は今でも胸が張り裂けそうになります。



私は広宣部・言論企画部に所属して「学ぶ」という悪魔のような武器を手に入れました。
たくさん法華講さんとも顕正会さんとも私は対論をしてきました。
けれど、私は人間の心を失いませんでした。それはきっと母と父の存在が大きかったのだと思います。
私たちの心にはきっと悪魔も住んでいるのでしょう。私は自分のことだからよくわかります。
私は褒められたような人間ではありません。醜い悪魔のようなものです。
しかしそのことを自覚して、真摯に生き直すことは誰にも許されているのではないでしょうか。
人間なのですから間違いがあるのは普通のことです。私はそこから逃げないで生きていきたいです。
誰かを悪者にして、彼らに罪をなすりつけて自分を正当化して生きるのは私の方法ではありません。
彼らも誤ったのかもしれません。しかし私も誤ったのです。



本年もどうぞよろしくお願いします。
返事が遅くなったことをお詫び申し上げます。
何かありましたら、気楽非活のメールでもツイッターでもいつでもご意見を頂ければと思います。
いつも本当にありがとうございます。心から感謝しています。
どこまで書き続けられるのか私にはわかりません。けれど可能な限り思索して書き続けていきたいと願っています。






追記:
たくさんのメール、Twitterでのご意見、DMなどはたくさん頂いており、連絡頂いた方全員に返信ができていないのが申し訳ないのですが、何かありましたらいつでも連絡くださいませ。
いつもありがとうございます。