気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮は民衆仏法ではない。その2




いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、以前、私はこんな記事を書きました。


日蓮は民衆仏法ではない」


創価学会の方の多くが日蓮思想とは民衆仏法であると考えていますが、上記の記事を読んで頂けたらわかるように、日蓮は民衆と交流したと思われる形跡はありません。


例えば極楽寺良観(忍性)と言えば、大石寺系教団の方からすれば「親の敵」みたいな極悪の存在ですけど(笑)、実は忍性は貧しい庶民やハンセン病患者等の社会的な弱者の救済をしたことでよく知られているんですね。嘘だと思ったらグーグルででも検索してくださいませ(笑)。「良寛」じゃなくて「極楽寺良観」ですよ。「忍性」という名で出てくるかと思います。
 


では翻って日蓮はどうか。彼は極楽寺良観のように病人のための治療所を作ってもいませんし、身寄りのないものや老人を受け入れる施設も何も作っていません。



加えて日蓮が民衆たちと交流したとか、日蓮が民衆を教化したとか、民衆の救済に尽力したとか、そんな形跡は遺文のどこを探しても見当たりません。
熱原の農民信徒は、日興ら門下の教化によるものです。
例えば『聖人御難事』には熱原農民信徒への言及がありますが、末尾に「さぶろうざへもん殿のもとに」とあり(学会版御書1191ページ)、四条金吾の元に届けられるよう指示があります。また「熱原の百姓等安堵せしめば」(同1456ページ)について言及された『伯耆殿御返事』は日興にあてられた書状なのであって、日蓮は農民たちに手紙など送っていませんし、まして交流した形跡など遺文には存在しません。



例えば日蓮と言えば「辻説法」と言われますが、日蓮の真蹟遺文中には日蓮自身が民衆相手に辻説法をしたという史料は存在しません。この点については創価学会も概ね認めているかと思いますが、鎌倉にある日蓮辻説法跡という史蹟はそもそも後世になって、国柱会の田中智学氏が作ったものであり、実際の遺文にあたれば日蓮が不特定多数の民衆を相手に辻説法をした形跡など全く見られません。



大石寺創価学会の教えてきた先入観でものを見てしまうと、見えないことがたくさんあります。




大石寺系信徒の論難。




いつも皆さん、ありがとうございます。
たくさんの激励や応援のメール、本当にうれしいです! 毎日、心から感謝しています!



ところで、Twitterで最近、大石寺の信徒さんから絡まれて議論になることが多いです。
そもそも私の立論は「大石寺が正しい」とか「学会が正しい」とか、そういうことを前提にしていないんですね。教義で歴史的に改竄されている点や文献的に根拠がない教義について創価学会大石寺の当該の箇所を指摘して批判しているだけです。


ですから「大石寺が正しい」とか「創価学会が正しい」とか主張することは、宗教的な信念として理解できても、それはそれを信じる人にしか通用しないのであり、私はそれを信じていないのです。信じていない人に信じている内容を主張しても無意味かと思いますし。


ジョン・ロールズが指摘したように、正義とは公正としての正義を意味し、最大多数の相互の合意によって形成されるべきものです。宗教的正義は信仰者の一人一人が信念として持っていて自然なことですが、それはやはり不断に更新されるべきもので、それが固定化された時からドグマが始まるのではないでしょうか。


Twitterその他で、多くのご意見をいただきましたが、多くはご理解頂ける方ばかりでした。私を非難中傷されるのは、多くが宗教的な信念からかとは推しますが、その全てが大石寺の信徒の方でした。
私の立場をご理解いただけたメール等を一部紹介したいと思います。



「対話の足場が違っていて、実りのない事なのにお疲れさまです。いまの創価学会や宗門の活動家とは、基本的に対話になりません。彼らの論理は後付けですから。何より『信じきる』が前提ですからね。」


「片や教理とドグマから宗教的情熱に基づいて論難している、片や、活動家としての経験を経た上で、文献も広く読んでおられて、古参・中枢の創価幹部からの見聞を踏まえて醒めた眼で見ておられる。嘆息に耐えない。」


「昨日の大石寺の信徒の方との議論を読ませてもらって、『大石寺系諸団体』って、やっぱり非常識なところなんだな、と改めて思いました。亜流である創価学会の非常識の源を見たような……全速力であの場所から走って逃げて、やっぱり正解だったなと」


「端から見ていて思います。冷静に話が出来ない段階で、相手の方とは議論が成立しないな…と。相手を見下し、貶して、本人の中では『やってやったぜ!』と、自己満足したいだけなのかな…と。この議論(対論?)に、何を求めているのやら」


そうですね。大石寺系信徒さんの特徴として他者を論破して言い負かしてやりたいという視点しか私には感じないんですね。
その姿勢そのものが私には信仰者として誠意あるものと思えないですし、もっと言えば釈迦の門流とも思えません。「相手と言い争ってはならない」とした法華経の安楽行品の精神にも違背していると思います。


「安楽行品について」


本来、言い争いをして相手を論難し、言い負かすことで自宗門の宣揚と考える姿勢は、釈迦の教えでもないし、本来の法華経安楽行品の教えとも矛盾すると私は考えます。




日蓮世界宗の立ち上げを断念。




いつもみなさん、ありがとうございます。


すでに複数のネット掲示板SNSでも明らかになっていますが、信濃町創価学会本部、執行部は、今回の本部幹部会(2017年11月11日〜)において、「日蓮世界宗」の旗揚げを予定していました。


ところが、遅くとも11月9日までには、これらの計画は全て中止。事実上「日蓮世界宗」の立ち上げは頓挫し、先送りとなりました。



すでにネットで多くの情報が流れているように、この原因についてはいくつかの理由があるようです。私のところに寄せられている複数の情報を総合して以下のような推論を私は立てています。もちろん推論ですから確証があるわけではありませんが、少なくとも信濃町日蓮世界宗の表明を企図していてそれが事実上不可能になったことは間違いないかと考えています。



①反対派の台頭
これは以前からあったことですが、副会長クラスで原田会長ら執行部の方針に反対を表明する、あるいは内心で反対を感じている人たちが増えてきていることです。実際今回の衆院選でも神奈川6区を落とし、原田会長の責任を問う声もあがっていたほどです。


②各国SGI組織、また理事長陣の反発
選挙前に伝聞情報ながら、各国のSGI理事長が本部幹部会の日程のない召集がかけられたようです。このこともあって、「日蓮世界宗」の立ち上げにはまだ十分な理解を得られていないようです。信濃町としてはそのための地ならしとしての「会憲」の制定だったのですが、なんらかの反対の声があがったことが考えられます。


③海外の諸法令との整合性
各国SGI組織と信濃町の関係について、法律的な整合性を取ることが国によっては難しく、この関係から表明を断念したとも言えそうです。



信濃町組織に反対する勢力の台頭が目立ってきました。方面幹部の中央批判はまだまださほどさほど見られませんが、信濃町が無視できないほど表面化してくれば、大きなことになるかもしれませんね。




元職員3名の裁判敗北・アカウント削除。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて元職員3名が創価学会員さんから活動費としてすでに3000万円を超える借金をしていることは、彼らのブログでもすでに語られています。


「元本部職員3名の精神性」
「元職員三人の今後の資金繰り」



ところが、彼らの再就職の目標としていた2017年8月を過ぎても、これらについては何も語られていません。彼らのブログでも語られているように「同志の皆さんが身を切って捻出してくださるお金も限界に近づき、今年8月までしか見通しがつかない状況」だったはずです。



それについて、Twitterで質問をしても全く回答はない。またそれに相応するようなブログ記事の投稿もない。誠意ある対応とは私には思えません。
少なくとも同志からお金を借りて、借金で生活をしている以上、責任があるわけですし、それについて何らかの言及がされて然るべきです。


にもかかわらず、Twitterアカウントは「諸般の事情により」削除。さらには


「詳細は省きますが、解雇裁判は負けてしまいました。しかし、学会本部執行部の不当性を証明するために、現在、解雇に至る前段階で下されていた『配置転換』と『譴責処分』に対する、損害賠償請求の裁判を学会本部に対して起こし、係争中です。」


とのことです。
裁判に負け、費用が嵩み、さらにまだ裁判を続けるというわけですが、結局まだ支援者の方の善意で借金をし続けているということなのでしょうか。
私はそれについて、きちんと言及されるべきだと思います。学会本部の特徴として私は何度となくこのブログで「都合の悪いことは言わなくなる」と指摘していますが、本部職員のみならず、この3名の方々も「都合の悪いこと」にはやはり沈黙しているという印象を私個人は受けます。



裁判費用も更に増えることでしょう。
自身の生活費もかかることでしょう。
とすれば、解雇裁判で負けたことについても「詳細を省く」のではなく、きちんと総括し、また資金繰りについても、今後どうしていくのか、なし崩し的に借金を続けて同志を苦しめ、負債を膨らませるのが正しいのか、きちんとご自身で総括をすべきだと私は考えます。
そうでなければ、何の目的もなく、財務と称して金を集め、会員から収奪する本部職員となんら変わらないのではないでしょうか。



















学会員ではない公明党議員。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて現在の公明党はその所属議員のほぼ全てが創価学会の会員です。



ところが、かつて公明党には創価学会員ではない議員も何人か所属していました。
具体的には草川昭三高桑栄松、和田教美、中西珠子、池坊保子広中和歌子、続訓弘などです(医学博士の高木健太郎氏は無所属で出馬し、当選後に公明党国民会議に参加しています)。



例えば草川昭三さんという人の経歴はなかなかすごいものがありまして、草川さんは当初日本社会党から出馬していました。1967年に旧愛知6区からの出馬で落選。この時の最下位当選は実は公明党石田幸四郎さんでした(笑)。



草川昭三氏はこの後、公明党から声をかけられ、党に入るわけなのですが、この時、公明党側から「創価学会員だけの党では幅が狭い。特に労働界から人材を投入したい」と言われたことを述懐しています。


「国会を去る最長老84歳・草川氏が見た『自公15年』」


そして草川昭三氏は1976年に旧愛知2区から出馬し当選。創価学会員でない人物が公明党議員になったのは草川昭三氏が最初です。



かつての公明党には「庶民の党」という看板があり、草川昭三さんのような人を受け入れる度量のようなものがあった気がします。創価学会員でない人を公明党が人物本位で公認していくことは、ある意味では政教一致云々の批判を避けるためでもあったのかもしれませんが、私はこれは概ね良い方に働いていたと思います。



現在の公明党は、草川昭三さんのように政界に意見できる人も減りましたね。草川昭三さんや市川雄一さんらがいた頃と違って人材も減り、少しずつ内輪の狭量な政党になっている印象を受けます。




不動と愛染と虚空蔵。





いつも皆さん、ありがとうございます。



さて今回は日蓮曼荼羅に描かれた不動と愛染の梵字にについてです。


曼荼羅の向かって右側には不動明王である「カーン」が縦に長く伸ばして書かれ、左側には愛染明王である「ウン」が細長く伸ばして書かれていると言われています。




実はこの「不動」と「愛染」を左右に配して祀る形式が真言に存在しまして、これは「三尊合行法」と言います。これが定式化されたのは真言宗立川流の文観『三尊合行秘次第』です。



「三尊合行法」では左右に不動愛染を配して、中央に虚空蔵を置きます。
実は中央の日蓮の花押こそが、梵字で虚空蔵を指すとする説があります。




日蓮の花押が、梵字の「マニ」を指し、 「如意宝珠」を指すとする説を採るなら、これは左右に不動愛染、中央に虚空蔵の持ち物である「如意宝珠」を配することになり、まさに「三尊合行法」と合致します。


例えば『清澄寺大衆中』(真蹟曽存)では「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せしことを不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし」(学会版御書893ページ)とあるように、日蓮が立宗にあたって虚空蔵に願を立てたのは多くの創価学会員や法華講さんならすでにご存知のことでしょう。この『清澄寺大衆中』には「虚空蔵」の語が計3カ所存在します。


また『善無畏三蔵抄』(真蹟推定断簡)には「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云」(同888ページ)とあることからもわかります。



ただ日蓮真言宗立川流の「三尊合行法」から影響を受けたとする仮説は、そもそも「三尊合行法」の成立年代を再検討しないと成立しない仮説です。推定ですが、文観(1278〜1357)の『三尊合行秘次第』の成立は1338年頃と考えられており、日蓮在世中のものではないことが明確です。



とすると、あくまで私の妄想に近い仮説ですが(笑)、真言宗立川流創始者とされる仁観(?〜1114)が虚空蔵曼荼羅に関する行法をすでに立てていて、それをなんらかの方法で日蓮が摂取したことが仮説として考えることができるかもしれません。仁観に関する文献は後世の彼への弾圧によって失われてしまい、その全貌がほとんどわからない状態にあります。



そもそも日蓮は若い頃は覚鑁の『五輪九字明秘密義釈』を書写する真言の徒でした。また立教開宗の後もしばらくは「法華真言」未分の立場であったことは『守護国家論』(真蹟曽存)等の著作からも明らかです。





生命論に固執する人たち。






いつもみなさん、ありがとうございます。


ところでTwitterでも書きましたが、シラミの話から始まる戸田城聖の『生命論』の主張は、生命が過去・現在・未来の三世に渡って永遠に続き、宇宙自体が生命であるというもので、内容的にはウパニシャッド哲学の焼き直しくらいに過ぎないと考えています。


「仏教は生命論ではない」


戸田氏や池田氏の生命論とか、あるいは『御義口伝講義』等で自身の教義を形成してきてしまっている、かつての創価学会員さんは、仏教の本質を「宇宙即我」「我即宇宙」とか言ったりします。



意味がわかりません(笑)。
そんなもの、ウパニシャッド哲学のアートマンブラフマンの思想ではありませんか。
ウパニシャッド思想と何が変わるんですかね。私は何も変わらないと思いますが。



大宇宙に真実に存在する永遠の法があって(ブラフマン)、それと自身との(アートマン)合一を果たすことが仏教の本質だと主張されるならば、それはウパニシャッドの仏教以前の教えに戻るということです。なんら真新しい思想でも何でもありませんし、ましてそれを根拠に日蓮思想の優位性を語ろうとすれば愚の骨頂(笑)、心ある他の宗教者に笑われますよ。



かつての過去の私もそうでしたが、現在の創価学会員さんや法華講さんの課題は、自身の教学がいかに狭量な世界観に止まっているかを自覚することが必要なのであって、自身が何も知らないという自覚をしなければ、本当の意味で自由な思索などできないと思います。
まあそんな方は頑張って宇宙生命論にしがみついて、信仰をするのも一つの方法かもしれませんね。私にとっては願い下げですが、欺瞞の教義を信じるのも人の自由でしょうから。