気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

如来神力品の別付嘱について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日は如来神力品第21について、考えてみたいと思います。
実は大石寺創価学会の教学で如来神力品というのは結構重要な章節とされています。
何せこれは大石寺の教学だと「結要付嘱」とか「別付嘱」とか呼ばれていまして、いわゆる「末法」の時代における仏法流布を釈迦から「上行菩薩に託された」とされています。


ところが結論から言いますと、ここでも付嘱が「上行菩薩だけ」に託されたとはどこにも書いていません。


実際に鳩摩羅什訳の如来神力品を引用してみましょう。実際にはこう書かれています。


「爾時仏告。上行等菩薩大衆。諸仏神力。如是無量無辺。不可思議。百千万億。阿僧祇刧。為嘱累故。以要言之。如来一切所有之法。如来一切之自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。」


この後も重要な部分が続きますが、この辺までの引用にしておきます。
鳩摩羅什訳の如来神力品を通読した限り「上行」の文字が出てくるのは上記の1箇所のみです。ここには「嘱累」の文字も出てきますから確かに委任されたと読むことはできますが、上記の引用を読めばわかるように「上行菩薩ひとりだけに託された」とは言えません。ここには「上行等菩薩大衆」と書かれていまして、別に上行菩薩だけが特別扱いとはなっていないのです。
実際、先日の聖教新聞でも(2017年8月8日付4面)でもこの「別付嘱」について


上行菩薩らは、如来神力品第21において、釈尊から滅後の弘教を付嘱されます。付嘱とは、未来に法を拡通することを託すことです。」


と書かれていまして「上行菩薩ら」という表現にしています。決して「上行菩薩」だけとは書いてないんですね。


ところで、サンスクリット原典を見ると実はこの「上行菩薩」(ヴィシシュタ=チャーリトラ、「勝れた所行の者」の意味)だけに釈迦が語りかけるシーンが出てきます。これがなぜか鳩摩羅什訳の法華経では削除されていますので、引用してみましょう。


「すると、世尊はそのとき、大地の割れ目から現われ出て、集団を率い、集団の偉大な指導者であり教師である、これらの偉大な志をもつ求法者たちの一人であり、かれらの中で最も勝れ、偉大な志を持つ求法者であると同時に、弟子の集団を率い、集団の偉大な教師であるヴィシシュタ=チャーリトラという者に語った。
『よろしい、よろしい、ヴィシシュタ=チャーリトラよ。汝らは、この経説のために、そのようにするがよい。汝らは如来によって、この上ない最高の『さとり』に到達するように成熟させられているのだ。』」
(『法華経』下、岩本裕訳、岩波文庫、151〜153ページ)


これを読むと確かに「上行菩薩」である「ヴィシシュタ=チャーリトラ」は「集団の偉大な指導者」であることがわかります。ただここでは「汝ら」と呼びかけが複数になっていまして、やはり上行菩薩一人だけに託されたとは経文からは即座に判断できません。



そして如来神力品には修行の方法がいろいろ説かれるのですが(受持とか書写とか読誦とかです)、ここには「広宣流布」という文字は出てきません。「広宣流布」が出てくるのは薬王品であり、「広宣此法」「流布此法」が出てくるのは嘱累品なんですね。このへんについては先日ブログにも書きました。


広宣流布は誰に委任されたか」


法華経訳者の岩本裕氏も言われていましたが、この神力品には「内容的に興味深いものは何もない」と私も思います。ただドラマティックにいろんなことを表現しているだけなんだと考えています。








「悟り」は存在しない。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて突然ですが、私は「さとり」というものが存在しないものだと思っています。



初期原始仏典のスッタニパータ、また大パーリ・ニッバーナ経を読んでも感じるのですが、仏教の本質とは人我見と法我見の克服にあるのだと思います。


私の考え方は龍樹の本質から日蓮を考え直そうとするものです。結果として日蓮の否定になると思いますが、それならそれでも別に構いません(笑)。


止観から観れば、一切の本質は空であるわけで、私たちは虚構の世界に生きていることになります。人間の価値というものが虚構であることはマルクスがすでに『経済学批判要綱』で指摘したことでもあります。だからマルクスは使用価値と貨幣価値とを分けるんですね。しかしそもそも使用価値でさえ、人間にとっての価値であり、その本質は虚構であると言えます。


普遍の法への固執こそ、私たちが克服しなければならない最大のものだと考えています。
法への固執を克服することによって、自分以外の思想を受け入れて認めることができるのだと思います。
「どこかに真実の法がある」なんて思っているから、間違った法を教えようとした教団や宗教指導者を非難して愚弄するだけの人間性に堕してしまうのではないでしょうか。


そうではなくて、正しい法などそもそも存在しないのだと思います。釈迦の教えとはそういうことであると思います。先日ブログで紹介した薬草喩品にもありましたが、一切の本質は存在しないのだということです。


私の考えですが「さとり」というものさえ一つの方便に過ぎないのだと思います。
方便とはウパーヤ・カウシャルヤの訳で、岩本裕氏はこれを「巧妙な手段」と訳しています。「さとり」が存在しないけれど、その目標を設定することで、人の生きる道を説いたのが釈迦の本来の教えなのではないか、最近はそんなことを考えています。


南無妙法蓮華経と名指されるような何かが存在しているのか。そんなものは存在しません。
名指される対象がなければ祈ることができませんから、秘妙方便として祈るだけで、それは本質的には存在していないということを理解することが龍樹の教えであると私は考えています。


真実も悟りもない世界で、それでも「真実」や「悟り」を求めざるを得ないのが人間の本質なのだと思います。だからこそ虚構としての「悟り」へ向かうために「秘妙方便」として御本尊だとかお題目だとかがあるのではないでしょうか。




追記:
一切の本質が存在しないという立場を否定し、「法の常住」を主張することが日蓮の教えだとする立場に立つなら、それは思想の自由ですけど、結局大乗以前の説一切有部に戻ることと本質的にはなにも変わらないと私は思います。事実、法華経の薬草喩品にもサンスクリット本で「一切の本質が存在しないこと」を主張していますから、法華経の文とも矛盾するかと思います。







転重軽受と罪障消滅の剽窃。

いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は読者の方から質問をいただいたことなのですが、「転重軽受」と「罪障消滅」について考えてみました。


いろいろ由来を調べてみたら、驚きました。


まず「転重軽受」ですが、これは『涅槃経』から採られた考え方です。日蓮は大乗涅槃経の内容からこの考え方を採用しています。
ただ大乗の『涅槃経』を五時八教の判釈で「法華涅槃」と醍醐味に配するのは天台の説でして、このことはなんら現代において有効性が認められません。そもそも初期涅槃経と違って大乗涅槃経もまた後世に創作された大乗経典の一つであり(まあこの点は法華経もそうなんですが)、釈迦の直接の言辞とはいえません。



どうも日蓮が涅槃経を重要視したのは法華経を補足する意味があるようでして、法華経に本来説かれていない即身成仏の考え方を補完する意味で涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の句を引っ張ってきているんです。


まあ涅槃経が有効であれば「転重軽受」の法門を信じても構いませんが、法華経を信仰される立場であれば、何も涅槃経の考え方をとらなくてもよいかと思います。上に書いたように日蓮が涅槃経の説を採るのは天台の五時八教説から「法華涅槃」と補完関係と捉えて引用しているだけの話です。


「罪障消滅」の語はどうも真言由来のようですね。

『不空羂索神変真言経』の中に「攝護福壽増安、無諸災厄、罪障消滅、所遊往處、常得勝利人民」とありまして、本来真言浄土真宗などでも言われる教義なんですね。



「諸教包摂と言ってしまえば聞こえはいいが、要するに日蓮は他宗の教義を盗んだのでしょう?」というご指摘がTwitterでありましたが、ある意味その通りで、日蓮は自分の教義を確立するために他宗の教義を上手に剽窃して利用しているのだと思います。









法華初心成仏抄の信用性の問題。



いつもみなさん、ありがとうございます。


さていつも思うことなんですけど、創価学会大石寺も『法華初心成仏抄』が本当に好きですよね〜って思います。
先日も聖教新聞で出てました。これ8月の座談会拝読御書だそうです(聖教新聞2017年8月1日付4面)。


結論から言えば、この御書は自分たちの教義の説明に都合が良いから使っている気がします。そもそもこの『法華初心成仏抄』は真蹟が現存しません。偽書の疑いが濃厚なものばかりを取り上げて、日蓮真蹟扱いにして教義の説明をするのは、日蓮の思想の真摯な探求ではなく、単に教団の現今の教義の説明に都合が良いだけという印象を抱きます。



「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」
(『法華初心成仏抄 』学会版御書557ページ)




この御書の問題点は以下の点にあります。

1、真蹟が存在しない。
2、己心を本尊とするため本尊は不要になる(なお己心と本尊が呼応して一致するという思想は梵我一如のバラモンウパニシャッドの思想)。


ですからこの『法華初心成仏抄』を一番に引っ張ってくるんじゃなくて、やはり真蹟の存在する遺文から引用すべきだと思うんですね。
そうでなければ、それは日蓮の思想でも何でもないものを広めてしまう可能性を否定できません。
真蹟遺文をきちんと第一に引用して、その後で傍証としてこの『法華初心成仏抄』のような遺文を出すならまだ信用が置けるというものです。
先日の8月1日付聖教新聞紙上で、併せて引用されていた御書は建治3年の『日女御前御返事』(御本尊相貌抄、真蹟不存)だけです。


要するに真蹟という観点で、日蓮を語ることができず、教団の現今の教義に都合が良いから使っているだけというのが創価学会大石寺の教学に過ぎないということです。




薬草喩品について。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さてこのブログでは日蓮とか法華経とか大石寺の教学を検証することをいろいろやってます。
で、改めて法華経を読んで思うことなんですけど、文学的にとても美しい表現に満ちた経典だと思います。



私がとても好きなのは譬喩品第3、薬草喩品第5、化城喩品第7、安楽行品第14、如来寿量品第16などです。
ここでは薬草喩品について取り上げてみましょう。


ここで雨が草木を潤す比喩が語られますが、私はこの比喩がとても美しくて好きです。こういうところを読むと、法華経が魅力的であって、後世に伝えられてきた理由がなんとなくわかる気がします。


「例えば、カーシャパよ、この三千大千世界には、さまざまな色をした、数多くの種類の雑草や灌木や喬木などが、地上に、あるいは山や渓谷に生い繁っており、また種々の名称をもつ植物の群落があるが、それらの上に大水の満ちた雲が立ちのぼり、三千大千世界のすべてを覆いつくして、到るところに一時に雨を降らすとしよう。その場合、この三千大千世界における雑草や樹木の類は、若くて柔らかい茎や枝や葉や花弁をもつものも、大きく成長した茎や枝や葉や花弁をもつものも、すべて、こうして大きな雲から降りそそいだ雨から、それぞれの力に応じ、また成育の場所に応じて、水を吸い上げるのであるが、それらは同じ雲から降りそそがれた同じ味の水によって、それぞれの種子に応じ、遺伝により、成長して大きくなり、また太くなるのである。さらに、花を咲かせ、実をみのらせるのだ。しかも、それぞれに異なった種々の名称を得る。同じ土地に生えているものはすべて、薬草の群落にせよ、いかなる種子から生えた植物の群落せよ、それらはすべて同じ味の水によって潤される。まさしく、このように、完全に『さとり』に到達した如来は、この世に出現して、すべてを一様に潤すのだ。」
(『法華経』上、岩本裕訳、岩波文庫、267ページ)


とても美しい比喩だと私は思います。鳩摩羅什の訳では「雖一地所生、一雨所潤」と説かれています。
仏の「さとり」が何であるか、私はここで語りませんし、語る資格もありません。しかしその「さとり」によって様々な人たちがそれぞれの個性を持って生き生きと輝いていく姿を文学的に表現し得たのはこの薬草喩品だと思います。


実は鳩摩羅什はこの薬草喩品を訳す時に後半の部分を大幅にカットしています。この編集にはいささか恣意的なものを感じますが、このカットされている後半に重要な示唆があると思いますので少し長めですが、一部紹介させていただきたいと思います。「薬草の喩え」の部分です。




「すべての教えが平等であることをさとることから、カーシャパよ、『さとり』の境地は開けるのだ。唯ひとつの『さとり』の境地があるのであって、二つあるいは三つあるのではない。そういう訳で、カーシャパよ、余は喩え話を汝にしよう。理解力のある人々は唯ひとつの喩え話で話した言葉の意義を直ちにさとるからだ。
例えば、カーシャパよ、生まれつき盲目の人は『よい色のものとか悪い色のものとかはない。よい色のものと悪い色のものとを見分けられる人もいない。太陽も月もない。星宿もなければ、星もない。星を見分けられる人もいない。』
と、このように言うであろう。すると、他の人々はこの生まれつき盲目の人の前で、このように言うであろう。
『よい色のものも悪い色のものもある。よい色のものと悪い色のものとを見分けられる人もある。太陽も月もある。星宿もあれば、星もある。星を見分けられる人もある。』
しかし、生まれつき盲目の人はこれらの人々の言うことを信用せず、その言葉を承知しないであろう。そのとき、あらゆる病気に通暁した、ひとりの医者がいたとしよう。この医者はかの生まれつき盲目の人を見て、このように考えるであろう。
『この男は前世における悪業のために病気が生じたのだ。病気が生じた場合、すべての病気は四種類である。すなわち、風性のものと、胆汁性のものと、粘液性のものと、そして複雑な併発性のものである。』
そこで、かの医者は生まれつき盲目の男の病気を治療するために、再三再四手段を考えて、このように考えるであろう。
『事実、如何に多くの薬が現に用いられようとも、この病気はそれらの薬で治療することはできない。しかし、山の王者である、ヒマラヤ山には、四種の薬草がある。』
四種とは何であるか。第一は『すべての炎症と膿汁の病根に浸透するもの』といい、第二は『すべての病苦をゆるめるもの』といい、第三は『すべての毒を消すもの』といい、第四は『病根に応じて安静な状態をもたらすもの』という。これらが四種の薬草である。
そこで、かの医者は生まれつき盲目の男を憐れみ、
『いかなる手段を講ずれば、わたしはヒマラヤ山に行くことができようか。』
と、その手段を考えるであろう。
かの医者はヒマラヤ山に赴き、高い処に登ったり、低い処に降りていったり、また山腹を斜めに歩いたりして、薬草を捜すであろう。彼はこのように薬草を捜して、それら四種の薬草を入手したとしよう。薬草を入手すると、彼は若干のものを噛み砕いて与えよう。若干のものは粉末にして与えよう。若干のものは他の薬剤と混じて煮て与えよう。若干のものは生の薬剤と混じて与えよう。若干のものは針で局所に注射して与えよう。若干のものは火で焼いて与えよう。若干のものは他の薬剤と混じたのち飲食物などにまぜて与えよう。こうして、このような治療法によって、かの生まれつき盲目の男は視力を回復することができよう。そして、自分自身で直接に外を見ることができるようになり、遠近とか日月の光とか諸星宿・諸々の星およびすべて形のあるものを見たとしよう。そして、このように言うであろう。
『わたしはかつて注意されたにもかかわらず、人の言葉を信用せず、それを承知しなかったとは、わたしは何という愚か者であったことか。わたしは今なんでも見ることができる。わたしは盲目の状態から解放され、そして視力を得たのだ。自分より勝れた者はいないのだ』と。
そのとき、五種の神通力をもつ聖仙たちがいたとしよう。神のような視力と神のような聴力をもち、他人の心を読む智慧や前世の境遇を記憶する智慧を具えて、神通力によって人を苦しみから解き放つ所行の巧みなかれらは、この男に、このように言うであろう。
『おい、男よ、おまえは視力を得たに過ぎないのだ。おまえが何かを知っているのではない。おまえのそのような自惚れは何処から生じたのだ。それに、おまえは理智もなく、学識もないのだ。』
かれらは、さらに、その男に次のように言うであろう。
『おい、男よ、おまえが家の中に坐っているとき、おまえは家の外にある形のあるものを見ることはできないし、また何があるのか知らない。また、人々がおまえに対して愛情をもっているか、それとも憎しみをもっているかも分からないのだ。五ヨージャナの彼方にいる人間の話していることも、太鼓や法螺貝の音も分からず、聞き分けることもできない。おまえは僅か一クローシャの距離でも両足を挙げないで行くことはできない。おまえは母の胎内に生じて成長したが、その事実を憶い出すことはできない。とすれば、おまえにどうして学識がありえようか。また、どうして「わたしはなんでも見ることができる」と言うのか。だから、おい、いい気な男よ、おまえは暗黒を光明と思い、また光明を暗黒と思っていたということをさとるがよい』と。
そこで、かの男は聖仙たちに、このように言うであろう。
『どのような手段を用い、どのような善行をするならば、わたくしはこのようや理智を得ることができましょうか。あなたがたの御恵みにより、それらの徳を授けてください。』
そこで聖仙たちが、この男に次のように話すであろう。
『汝がそれを望むなら、人里離れた処か山中の洞窟に住め。そこに坐って、教えを静思し、汝を悩ます欲望を捨てるべきである。こうして、汝は清浄な徳を具えた者となり、神通力を得るであろう。』
そこでかの男はその意味をさとって出家した。彼は人里離れた処に住んで、一心不乱に世間の欲望を捨て、五種の神通力を得るであろう。神通力を得た彼は、
『わたしはかつて他のことをしたが、それによっていかなる恩恵も得られなかった。わたしはかつて理智が乏しく、経験も少なく、盲目であったが、今こそ望みのままに行くことができる。』と考えよう。
以上が、カーシャパよ、この意義を知らせるために余が作った喩え話である。そして、この場合、その意義は明らかである。生まれつきの盲目というのは、カーシャパよ、六種の運命をたどって生死を繰り返している人間をさすのだ。かれらは正しい教えを知らず、煩悩のために盲目となり、暗黒を増大しているのである。そして、かれらは無知のために盲目となり、業の原因となる所行を積み重ねる。そして、この所行が縁となって名と形態があり、遂にはその人だけの、このように大きな苦悩の集積が生ずるのである。
このように、人間は無知のために盲目であるが故に、生死を繰り返すのである。如来は三界を超越してはいるけれども、父が愛するひとり息子に対するように憐れみの心を起こして、三界に降りてきて、人間が生と死の回転する車輪の中に巻きこまれ、生と死の回転から脱出することを知らないのを視る。そこで、世尊はかれらを理智の眼で見て、
『これらの人間はかつて善いことをしたのであるが、今では憎悪の心は少ないが貪欲の心の深い者がおり、貪欲の心は少ないが憎悪の激しい者がいる。理智の乏しい者もあれば、学識のある者もあり、完全に清浄な者もあれば、誤った見解をもつ者もいる。』
と知るのである。これらの人間のために、如来は巧妙な手段を用いて、三種の乗物を示すのだ。
その場合、五種の神通力をもつ清浄な眼の聖仙たちのように、求法者たちは『さとり』を得ようとする心を奮いたたせ、この世に存在するものはすべて生じたり滅したりすることがないという真理を会得して、遂にこの上なく完全な『さとり』に到達するのである。
その場合、如来は実にかの偉大な医師と同じであり、愚かさのために盲目になっている人々は、かの生まれつき盲目の男と同じであると見做されるべきである。貪欲と憎悪と愚かさとは正に風と胆汁と粘液と同じである。そして六十二種の邪悪な思想も同様に見做されるべきである。また、一切のものの本質がないこと(空)と、一切のものに差別の根拠となる形状がないこと(無相)と、一切のものは作為なく存在していること(無願)と、『さとり』の境地への入口とは、四種の薬と見做されるべきである。それぞれの病気に応じて薬が用いられ、病気はそれぞれに治療されるということである。このように一切のものの本質がないことをさとり、形状のないことを会得し、作為なく存在していることを知ることが、この世の苦悩から解放される端緒であり、これが『さとり』の境地への入口であると考えて、人間は無知を克服するのである。こうして、遂には、その人だけの大きな苦悩の集積が克服されるようになるのである。そして、このように、その人の心は善にも悪にも捉われないのだ。
声聞と独覚の乗物を希求する者は、盲人が視覚を得るのと同じであると見做されるべきである。生死の回転の原因となる煩悩の緊縛を断ち、煩悩の緊縛から解放され、六種の運命から、また三界から解放される。これによって声聞の車を希求する者は、
『このほかに、現にさとるべき教えはない。わたしは「さとり」の境地に到達したのだ。』
と、このように知り、またこのように語るのである。そこで、如来が彼に
『すべての教えを聴いていない者が、どうして「さとり」の境地に達することがありえようか。』
と、教えを示すのだ。世尊はこの男を『さとり』に到達するように勧める。彼は『さとり』に到達しようと心を奮い立たせて、生と死の回転から脱出するが、『さとり』の境地には到達することができない。彼ははっきりと会得して、三界が十方において空虚で、この世は蜃気楼や幻影や夢や陽炎や反響に似ていると見るのである。彼は一切のものが生ずることもなければ死滅することもなく、緊縛されることもなければ解放されることもなく、暗黒でもなければ光明でもないと見るのである。このように教えの意味深遠なことを観ずる者は、三界のすべてに『さとり』に到達しようとする意志に専念する種々の人間が満ち溢れていることを、眼で見ることなく、心で見るのである。」
(同288〜294ページ)







広宣流布は誰に委任されたか。





いつもありがとうございます。
さて先日の記事で書いたように『法華経』中に「広宣流布」という言葉の用例は薬王品の1箇所しか存在せず、これは上行菩薩ではなく宿王華菩薩一人に託されていることを紹介しました。


広宣流布鳩摩羅什の造語」


実際に経文を見ると次のようになっています。

「是故宿王華。以此薬王菩薩本事品。嘱累於汝。我滅度後後五百歳中。広宣流布。」

読んでそのままですが、きちんと「広宣流布」は「宿王華菩薩」一人だけに託されています。しかも呼びかけの2人称は「汝」ですから単数ですよね。決して2人称複数ではありません。「宿王華」一人だけに釈迦が呼びかける形をとっています。


類似の部分はどうなのでしょうか。
例えば確かに嘱累品には「広宣流布」の用例は存在しませんが、「広宣此法」と「流布此法」という語は出てきます。これをもって上行菩薩広宣流布が託されたと読むことも可能かと思います。ただこの嘱累品を見ると2人称が複数になっていて、決して上行菩薩一人だけに託されているとは言えないことがわかります。


「今以付嘱汝等。汝等応当一心流布此法。広令増益。」

「今以付嘱汝等。汝等当受持読誦。広宣此法。令一切衆生普得聞知。」



とありますようにここで釈迦は会座の会衆に対して「一心流布此法」と「広宣此法」を付嘱したと考えられます。
ただ上の引用を見ればわかる通り、この委任は「汝等」つまり「あなた方」と呼びかける対象が2人称複数になっているということです。事実サンスクリット原本でも「良家の息子たちよ」と呼びかけの対象が複数になっています。決して一人だけに託されているのではありません。ここの嘱累品で上行菩薩は終わりの方に「及多宝仏、并上行等無辺阿僧祇菩薩大衆、舎利弗等声聞、四衆、及一切世間天人阿修羅等」として、ちょこっと顔を出すだけですから、この品で上行菩薩の一人だけに託したと解するのはやや無理があるかと思います。


他の品ではどうなのでしょうか。
例えば普賢菩薩勧発品では「広令流布」という用例が見られます。


「於如来滅後。閻浮提内。広令流布。使不断絶。」


これは経文中、普賢菩薩が釈迦に対して誓いを述べている部分です。つまりここは普賢菩薩本人が釈迦に対して「私が広令流布をしていきます」と誓っているんですね。


嘱累品、薬王品、普賢品の「広宣流布」に近い用例を見る限り次のように考えられます。


①嘱累品における「流布此法」「広宣此法」は「汝等」と会座の会衆全員に釈迦が呼びかけられており、上行菩薩一人だけに委任されたという文脈を読み取ることができない。

②薬王品では宿王華菩薩一人に対して「嘱累於汝、我滅度後後五百歳中、広宣流布」と明確に呼びかけられているので「広宣流布」という語句は「汝」一人だけ、つまり宿王華だけに託されたことが読み取れる。

③普賢品では普賢菩薩が「広令流布」をしていく旨、決意が述べられるので、もしも「広令流布」が「広宣流布」と同義だと考えれば「広宣流布」は上行菩薩だけでなく他の普賢菩薩たち、またその他の大衆にも同じように託されたという文脈になる。


という感じになるかと思います。





我見について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「我見」について、書いてみたいと思います。


私はこんなブログを書いていますけど、応援してくださる方も多くとても嬉しいです。本当に感謝しています。
一方で批判される方も多く、それは思想上の相違として大いに結構かと思います。
ところで一つ気になっていることなのですが、私を批判される際に多くの方が「気楽非活さんは我見が過ぎる」というように批判するんですね。
結論から言ってしまうと、それは仏教上の「我見」という言葉を誤って用いていませんか?ということです。



検証してみましょう。「我見」という語は本来「我執」(アートマ・グラーハ)という語でありまして、仏教ではそれらの我執の克服が重要な課題であると考えられてきました。

自身に普遍の自我(アートマン)が存在すると主張することを「アートマ・グラーハ」(人我見)と呼びます。それに対して全ての存在に対して実体があるというのを「ダルマ・グラーハ」(法我見)と呼びます。


仏教はこの「人我見」と「法我見」の克服を一つの大きな課題と考えます。
ところで説一切有部は個々の自我について否定し「人我見」を乗り越えたと判断することができますが、彼等は法の実在、ダルマの存在については認めたんですね。龍樹が批判したのはまさにその点でして、龍樹はダルマそのものさえも縁という視点から克服を試みました。



ですから仏教において「我見」というのは「自我アートマンと法ダルマの実在に執着すること」を意味するのであって、それを「自分勝手に仏教を解釈する」というような意味で使うとすれば、それは本来の仏教の用例ではありませんし、ご自身が仏教というものに対して検証をされていないということかと思います。