気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮正宗の教義矛盾。




いつもありがとうございます。
日蓮正宗の方でも私のブログを読んでそれなりに共感してくださる方もいまして、本当に感謝しています。
日蓮正宗の信仰に矛盾を見いだしながら、まだ信仰を続けていることも個人の自由ですからそれはそれでも構わないかと思います。大切なことは日蓮正宗という教団の欺瞞性と教義の矛盾に目を向けることであって、そこから煩悶を越えて自身の思想を内面に形成していかなければならないということです。


例えば以下のブログ記事についてなんらかの説得力のある反論をすることも信仰者としては大切なことでしょう。



戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

「『御本尊七箇相承』から考える」



反論をされる場合、きちんと文献や史料を提示して客観性のある議論をするのが正しいのですが、日蓮正宗の方はそれができない方が多いですね。大声で叫んだり、感情的になったり、黙ってしまったり、「私は御法主上人に信伏随従します」と言ってみたり……全く客観性のある答えが出てこないし、生産性のある議論にならないんですよ。
私は僧籍にあるわけでもないですし、ただの非活の一創価学会の会員に過ぎません。こんな私の論文にもならないようなブログ記事なんて、すぐに反論くらいできそうなものなんですけどね。Facebookのコメント欄に『慧妙』の画像を貼るだけでは反論にもなりませんよ。自身の言葉で語ることができないほど教学力が低いのも大いに問題かと思います。


私は別に日蓮正宗の信徒の方と対話をするのを拒んでいるわけではありません。ただ生産性の高い議論ができる人は日蓮正宗の中では少ないと思っています。まともに御書も読んでおらず、きちんと反論できる方がほとんどいないんですよ。


繰り返しますが、日蓮正宗の教義には決定的な矛盾があります。戒壇本尊の相貌と『御本尊七箇相承』との相違一つでも明らかです。その矛盾にきちんと目を向けなければ、"広宣流布"なんて言ってみたところで、世間的には「ただの盲信者の世迷いごと」と思われても仕方がないと思います。








選挙における勝利至上主義。





いつもみなさん、ありがとうございます。

創価学会の活動家は現在都議選モードです。
都内に友人がいないか、ひたすら数えてますよ。
なんでも今回の選挙は「公明党にとって非常に厳しい選挙」だとのこと。
そんなこと選挙の度に毎回言ってますよね(笑)。


思うんですけど、選挙支援の戦いに普通の会員を巻き込まないでほしいんですよね。
別に公明党の支援をするかどうかは個人で決めますから、マルKを増やす戦いだのなんやかんや騒がしくしないでもらいたいです。
別にみんながみんな、公明党を支援しているわけではないですよ。
学会員全員が「公明党を支援すべし」なんて前提に立って話されても、単なる思想統制じゃありませんか。


それにそもそも公明党が勝つか負けるかは基本的に公明党の問題であって、創価学会の問題でもないと思うんですよね。
国民の広範な支持を得る方が政党としては大切なことなのであって、何も一つの支持組織が血眼になって友人票の掻き集めに躍起になる必要はないでしょう。


ところで、今の創価学会の選挙戦の基礎を作ったのは実は若き日の池田参謀室長なんですよね。


組織の票読みをして徹底して家庭訪問に入る。そういうドブ板選挙をやってきたのが池田氏でした。そして関西の創価学会がそこに純粋に乗っかったわけです。


今の創価学会の選挙戦は基本的に池田氏が関西でやってきたことを踏襲しているに過ぎないんだと思います。
まあFやらZやらマルKやら、いろんな戦い方をするようになりましたけど、基本的に池田氏が関西でやってきた戦いを現代において踏襲しているだけなのです。


池田氏の考え方では「勝つ」ことが至上命題であって、数字的に「勝つ」ために目標数を決めて、日程から勝利を逆算していきます。
しかしながら、そこでは政治的な思想の深まりとか、仏法の現代的意義とか二の次なんですね。
選挙で「勝つ」ことを至上命題にしてしまったので、思想的に公明党がどうあるべきかという議論がされないまま、数字としての票だけを絶対視してしまったのです。


世間一般から公明党に対する低い評価に出会うことがありますが、その原因はまさにその点にあるのではないでしょうか。すなわち勝利至上主義であり、公明党の政治的な立ち位置とか、政治的な思想の深化とかを支持者たちがなんら示すことができていないことが背景にあるのではないかと私は考えています。


その遠因は何かといえば、間違いなく池田参謀室長の関西での戦いで示された勝利至上主義です。
結局のところ、池田氏の勝利至上主義、票数の至上主義を総括し、深い反省をしない限り、公明党に対する反発はなくならないと思います。



日寛由来の創価の教義。




いつもありがとうございます。
さて先日のブログで書いたように創価学会の教義としては基本「池田名誉会長」と「日寛教学」しか残っていないと書きました。


特に創価学会内部の信濃町に批判的な人たちは、基本の教義がこの二つしかないのでどちらかを批判されると突然怒り出すか、ひたすら否定し出すか、そのどちらかしかありません。信仰を客観視できずにトランス状態になる方も少なくありません。


ところで「池田名誉会長」を否定できないのは精神構造的によくわかるけど、「日寛教学」なんてほとんどの人は知らないのでは?というご意見がありました。
確かにそうですよね。日寛の教義として教えられてきたわけじゃありませんから。
しかし創価学会でよく言われるような以下の3点の思想や考え方などは、基本大石寺26世日寛の教義に依存したものです。



1、「祈りとして叶わざるなし」

これは日寛の『観心本尊抄文段』に出てくる言葉です。つまり御本尊に願えばどんな願いも叶うんだという指導は、実は日寛の教義を下敷きにしています。


2、勤行の方便品と寿量品読誦

勤行において方便品と寿量品を読む意義は日寛の『当流行事抄』において説明されています。ですから学会員が毎日やっている勤行の形態は基本日寛教学です。


3、日蓮本仏説

日有にあった日蓮本尊説から一歩飛躍し日蓮を「末法の本仏」とまで祭り上げました。これは恵心流の中古天台口伝法門における「釈迦=迹仏」「天台=本仏」の考え方の剽窃であり、簡単にいうとパクリであります。



他にもたくさんあります。

数珠の形とか、
人本尊・法本尊の考えとか、
自受持用報身如来とか、
種脱相対とか、

基本、日寛は創価学会アイデンティティに深く根ざしている部分が多いので、それを否定することができなくなっているんです。


要するに毎日方便品と寿量品読んでる時点で、やってることは日寛の教義と変わらないということです。



追記:
余談ですが、日寛の思想を推し進めると信仰者の純粋な信仰にこそ血脈が通うというロジックが出てくるとは思います。例えば『当体義抄文段』には「我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」としています。
ですから「信心の血脈」を主張し、池田名誉会長を絶対視することが真の信心であるとする考え方は、日寛教学のややボナパルティックな解釈であると考えられますね。





日蓮宗興門派としての大石寺。




いつもみなさん、ありがとうございます。

さて大石寺は"日蓮正宗"と呼ばれていますけど、本来もともとはそんな宗派は存在していませんでした。大石寺は総本山でもなく日蓮宗興門派の一つに過ぎなかったんです。
ただ大石寺そのものは独立を主張し続けて、独自性を訴えてきたんですが、明治政府にも興門流の他の本山にも相手にされませんでした。
54世日胤も独立を訴え、55世日布も内務省に独立を訴えたのですが、事実上退けられます。


明治17年の興門八山会議において大石寺は自分たちの「血脈相承の正当性」を訴え、自分たちこそが"総本山"であると主張しましたが、他の七本山には受け入れられませんでした。


大石寺が独立するのはその後の明治33年のことで「日蓮宗富士派」と称していました。その後宗門の名称の検討が宗内で行われ、明治45年(1912年)6月7日に57世の日正の代に「日蓮正宗」という名称が決定されることになります。



ここで私が書きたいことは、大石寺の独立を明治政府も、興門流の他山も認めなかったという点です。
明治政府から見れば大石寺は他の本山同様、日興門流の流れに属し、そして宗義的にも他の本山からの影響下にあります。
また他の七本山も決して大石寺の血脈の正当性を認めてはいませんでした。すなわち北山本門寺西山本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、京都要法寺保田妙本寺伊豆実成寺大石寺の血脈の正当性を認めなかったということです。


北山本門寺や京都要法寺からみれば、富士大石寺もまた自分たちと同じ興門流の一派に過ぎず、その独自性などなんら省みられていません。

そもそも以前ブログで書いたように"日蓮本仏説"はもともと大石寺の教義には存在せず、9世日有の日蓮本尊説を堅持していました。日蓮本仏説は保田妙本寺の日我が先行して主張していまして、大石寺はそれを吸収し、最終的には日寛により自宗の教義として作り上げられたものに過ぎません。



「法灯連綿」とか言いますけど「法灯連綿」にせよ「法水写瓶」にせよ、他宗門で普通に使われる教義であり、大石寺独自のものではありません。


ですから自分たちで教義を作ったというより、いろんな山からの影響と盗用により自分たちのアイデンティティを形成してきたというのが大石寺の偽らざる実態かと思います。







日蓮は民衆仏法ではない。




いつもありがとうございます。


さて真蹟遺文中から判断される日蓮の思想は、とても民衆仏法とは言えません。
日蓮は民衆を相手にしていません。日蓮が相手としているのは武家社会であり、鎌倉幕府です。


民衆が嘆いているからこそ国にはすべきことがある、という視点は日蓮に存在します(例えば『立正安国論』や『守護国家論』がそうですね)。しかしそれだからといって日蓮の思想を"民衆仏法"とするのは早計でしょう。


遺文からみても日蓮が民衆と交流したという形跡など少しも見出すことはできません。
つまり日蓮の思想は民衆仏法ではないのです。
題目という修行法を作ったことは事実です。しかしそれは易行道の一つとは言い得るかもしれませんが、それが直ちに民衆仏法であるとは言えないでしょう。


『一代五時図』などから明らかなように弟子たちには講義のための図を表し、天台の五時八教説から経典を判釈して教えていました。相手は弟子か武家等であり、文字が読めるものたちです。武家の尼たちには仮名書きで書いています。
日蓮が民衆と交流したとされる証拠は何一つありません。武家に対して大師講を開き、布施供養を頂いたら返礼の手紙を出すに過ぎません。


日蓮の著作は民衆に読めるものではありません。事実、創価学会の方はほとんど読めていないではありませんか。
守護国家論』とか内容をちゃんと把握しているのでしょうか。そもそも『立正安国論』は『守護国家論』を要約したものです。そういったこともきちんと知るためにはある程度の学習が必要です。ですから『立正安国論』にせよ『守護国家論』にせよ、鎌倉幕府武家を相手に書いたものであって民衆を相手になどしていないのです。
日蓮の遺文には「民衆が中心」という視点は存在しません。日蓮のスタンスは国家をどうするか、その思想的基盤をどうするかというところにあります。


創価学会が勝手に言っている「民衆の教学」とか「誰でもわかる仏法」などというものは日蓮の考え方ではありません。日蓮の思想はそもそも民衆に向いていません。日蓮が意識していたのは常に国家であり、武家社会なのです。
いいかげん、創価学会が勝手に主張している「民衆仏法」という概念を日蓮から切り離した方がよいと思います。








上部構造としての創価学会。




いつもみなさん、ありがとうございます。



創価学会の公称の世帯数は872万世帯のようですが、これがここのところ少しも増えていません。
つまり組織的には停滞していると言えます。


これは創価学会だけでなく、いわゆる昭和の新宗教教団たちも信者数を減らしています。
PL教団も信者数は半減したようですし、PL学園の野球部が廃部になったこともご記憶にあるでしょう。
立正佼成会霊友会も教団の信仰を次の世代に継承することの難しさに直面しています。


その中でも創価学会は信仰を若い次の世代に継承させることに比較的成功してきた団体です。その団体が今や青年層を獲得することの難しさと未来部の実質的壊滅という事態に直面しているわけです。



以前、書いたように私は、創価学会という存在自体が昭和の高度経済成長の時代に現れた一つの社会的運動だったと考えています。

「歴史的役割の終わり」



カール・マルクスの『経済学批判』の序文には「上部構造と下部構造」の考え方がみられます。
これは思想や精神性、政治状況、文化といった社会の「上部構造」は、経済や生産諸関係といった社会の「下部構造」から規定されるということです。
つまりその時代の思考や精神性とか流行とかいうものには一つのパラダイムが存在していて、その前提には経済的な生産諸関係が深く存在しているということになります。
ですから生産諸関係が変化していくにつれて社会の「上部構造」は必然的に変わらざるを得ないとマルクスは考えているわけです。


そう考えた時に、昭和の高度経済成長の中で生まれた運動としての創価学会は、もはや前提となる「下部構造」を失っていると言えます。
教義が古臭くなるのはそういう理由ですが、信濃町の本部職員は必死に海外のSGI組織を聖教新聞紙上でアピールし、現代的な仮面をつけることに一生懸命です。


形式というのは時代に応じて変わっていくものです。
だからかつての創価学会というものは昭和の高度経済成長期に現れた思考の一つの運動であったわけで、もはやその歴史的な役割は終わっていると言ってよいでしょう。

昭和54年の辞任問題。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて昭和54年に池田会長は会長職を退くことになります。多くの活動家なら周知のことでしょう。




で、当時の本部の幹部連中は誰一人、池田氏を擁護せず「辞任すべき」としたんです。
これはどういう意味かわかりますか。
要するに池田会長に責任と問題があったんです。幹部連中もほとほと呆れてしまったんです。
池田氏は当時よく大きなことを突然語り、幹部たちからは「大風呂敷」と呼ばれていました。私の父もよく言っていましたよ。




当時の池田会長は昭和52年路線で
創価学会は在家でありながら供養を受けられる」
「宗門は儀典を行うだけの存在」
としてしまいます。
これが宗門を怒らせたんです。
そりゃ当たり前ですよね。



挙げ句の果ては勝手に御本尊を模刻して、法主も呼ばずに会長自身で開眼供養までやってしまいます。つまり宗門のメンツは丸つぶれということです。




私は思想的に在家中心の教団でいくというなら、それはそれで思想上の自由ですし、その考えは認められるべきだと思います。
ただ問題なのは、当時、創価学会日蓮正宗講中組織だったということです。
昭和52年問題で完全に宗門を批判して離れていたなら、その発言はよく理解できます。
しかし少なくとも当時は教義の決定権は宗門にあったわけで、信徒団体としてあまりに宗門をないがしろにした発言であったと言わざるを得ません。
それなら中途半端なことをしないで、当時の昭和52年に全面的に宗門とやり合えばよかったではありませんか。



つまり当時の池田会長は総本山を創価学会の儀典部扱いにしておきたかったんです。
確かに折伏を怒涛のようにやってたのは、法華講ではなく圧倒的に創価学会の方でした。日蓮正宗なんて折伏ぜんぜんできません。
だから思い上がってしまったのかなって気がします。
で、信徒団体からそんな失礼な扱いをされたら、そりゃ宗門も怒りますって(笑)。


で、大牟田の福島源次郎氏の僧侶愚弄の発言があり、池田会長の監督責任を問われたんです。
私が言いたいことは、当時の池田会長に責任があることは明らかであり、池田氏の発言に問題があったということです。福島氏の発言はあくまで導火線に過ぎません。その前に前提として池田会長の52年路線の発言と日蓮正宗からの教義逸脱があったことは決定的な事実です。
どうしても「仏教史観を語る」のような主張をしたいなら、当時から完全に宗門から離れればよかったではありませんか。
それを表面上は宗門を尊敬するような口ぶりで語ってきた。そこに問題の本質があります。



だから当時の幹部たちが呆れかえってしまったんです。これではもうどうしようもないと。
責任は明確に当時の池田会長にあります。




まあ、それは池田氏の思想的なものなので、それを宗門との微妙な関係の中で主張したかったというのはまだ理解できます。
さらなる問題は「悪侶によって攻撃された」と言い張り、あたかも自身が被害者のように語っていることです。
違います。池田会長に問題があったので辞任せざるを得なくなったのです。




昭和54年の本質は、池田会長の宗門蔑視の思想によるものです。
私は現今の形骸化した大石寺に何の共感も持ちません。ただ当時の池田会長が自ら宗門の許可なく御本尊を模刻して、会長自身で開眼供養までやったから宗門から怒られたということは筋としてわかります。当たり前でしょうね。
挙げ句の果ては「宗門じゃなくて学会に供養すべき」なんて信徒団体から軽々に言われたら、宗門としては当然怒りますって。
それを被害者であるかのように装う池田名誉会長の態度は欺瞞です。
だって「皆で仲良くやっていけ」という戸田会長の遺言があって、一生懸命幹部陣だって池田会長を守ろうとしたんですよ。
それでも開き直る池田会長の態度に幹部連中が呆れてしまったというのが事の真相です。だから誰も会長辞任に異を唱えなかったのです。
責任の全ては池田氏にあります。
池田氏が偉大な指導者であるとか、戸田城聖の唯一の弟子であるというわけのわからない幻想はもう捨てましょう。戸田氏は池田氏を後継者に指名したことなどありません。
エレベーターの中で戸田城聖から相承があったというのは小説『人間革命』の作り話です。
そもそも戸田氏に「城」の字をもらって名前をつけてもらったのは秋谷栄之助氏と渡部一郎氏です。それぞれ「秋谷城栄」と「渡部城克」という名前だったのが、池田会長が元に戻すように命じただけのことです。



池田会長の52年路線の発言に大いに問題があって、その後、創価学会山崎正友氏というとんでもない男につけこまれることになります。




追記:
山崎正友氏は最高幹部でありながら3億円の恐喝を創価学会に対して行いました。原島嵩氏が後年山崎氏と行動をともにしたのは、彼の晩節を汚す行為だったと私は考えています。
以前、このブログでも書いたように財務制度が目的も何もない金集めになるのはちょうど正本堂建立以降、昭和47年以降のことです。
結局、学会幹部もお金に狂っていったんだろうなって思います。
そりゃそうです。昭和47年当時に一週間で355億円の金が集まったら誰でもおかしくなりますよ。