いつもみなさん、ありがとうございます。
さて昭和54年に池田会長は会長職を退くことになります。多くの活動家なら周知のことでしょう。
で、当時の本部の幹部連中は誰一人、
池田氏を擁護せず「辞任すべき」としたんです。
これはどういう意味かわかりますか。
要するに池田会長に責任と問題があったんです。幹部連中もほとほと呆れてしまったんです。
池田氏は当時よく大きなことを突然語り、幹部たちからは「大風呂敷」と呼ばれていました。私の父もよく言っていましたよ。
当時の池田会長は昭和52年路線で
「宗門は儀典を行うだけの存在」
としてしまいます。
これが宗門を怒らせたんです。
そりゃ当たり前ですよね。
挙げ句の果ては勝手に御本尊を模刻して、
法主も呼ばずに会長自身で開眼供養までやってしまいます。つまり宗門のメンツは丸つぶれということです。
私は思想的に在家中心の教団でいくというなら、それはそれで思想上の自由ですし、その考えは認められるべきだと思います。
昭和52年問題で完全に宗門を批判して離れていたなら、その発言はよく理解できます。
しかし少なくとも当時は教義の決定権は宗門にあったわけで、信徒団体としてあまりに宗門をないがしろにした発言であったと言わざるを得ません。
それなら中途半端なことをしないで、当時の昭和52年に全面的に宗門とやり合えばよかったではありませんか。
つまり当時の池田会長は総本山を
創価学会の儀典部扱いにしておきたかったんです。
だから思い上がってしまったのかなって気がします。
で、信徒団体からそんな失礼な扱いをされたら、そりゃ宗門も怒りますって(笑)。
で、
大牟田の福島源次郎氏の僧侶愚弄の発言があり、池田会長の
監督責任を問われたんです。
私が言いたいことは、当時の池田会長に責任があることは明らかであり、
池田氏の発言に問題があったということです。福島氏の発言はあくまで導火線に過ぎません。その前に前提として池田会長の52年路線の発言と
日蓮正宗からの教義逸脱があったことは決定的な事実です。
どうしても「仏教史観を語る」のような主張をしたいなら、当時から完全に宗門から離れればよかったではありませんか。
それを表面上は宗門を尊敬するような口ぶりで語ってきた。そこに問題の本質があります。
だから当時の幹部たちが呆れかえってしまったんです。これではもうどうしようもないと。
責任は明確に当時の池田会長にあります。
まあ、それは
池田氏の思想的なものなので、それを宗門との微妙な関係の中で主張したかったというのはまだ理解できます。
さらなる問題は「悪侶によって攻撃された」と言い張り、あたかも自身が被害者のように語っていることです。
違います。池田会長に問題があったので辞任せざるを得なくなったのです。
昭和54年の本質は、池田会長の宗門蔑視の思想によるものです。
私は現今の形骸化した
大石寺に何の共感も持ちません。ただ当時の池田会長が自ら宗門の許可なく御本尊を模刻して、会長自身で開眼供養までやったから宗門から怒られたということは筋としてわかります。当たり前でしょうね。
挙げ句の果ては「宗門じゃなくて学会に供養すべき」なんて信徒団体から軽々に言われたら、宗門としては当然怒りますって。
それを被害者であるかのように装う池田名誉会長の態度は欺瞞です。
だって「皆で仲良くやっていけ」という戸田会長の遺言があって、一生懸命幹部陣だって池田会長を守ろうとしたんですよ。
それでも開き直る池田会長の態度に幹部連中が呆れてしまったというのが事の真相です。だから誰も会長辞任に異を唱えなかったのです。
池田氏が偉大な指導者であるとか、
戸田城聖の唯一の弟子であるというわけのわからない幻想はもう捨てましょう。戸田氏は
池田氏を後継者に指名したことなどありません。
エレベーターの中で
戸田城聖から相承があったというのは小説『人間革命』の作り話です。
そもそも戸田氏に「城」の字をもらって名前をつけてもらったのは
秋谷栄之助氏と
渡部一郎氏です。それぞれ「秋谷城栄」と「渡部城克」という名前だったのが、池田会長が元に戻すように命じただけのことです。
池田会長の52年路線の発言に大いに問題があって、その後、
創価学会は
山崎正友氏というとんでもない男につけこまれることになります。
追記:
山崎正友氏は最高幹部でありながら3億円の恐喝を
創価学会に対して行いました。
原島嵩氏が後年山崎氏と行動をともにしたのは、彼の晩節を汚す行為だったと私は考えています。
以前、このブログでも書いたように財務制度が目的も何もない金集めになるのはちょうど
正本堂建立以降、昭和47年以降のことです。
結局、学会幹部もお金に狂っていったんだろうなって思います。
そりゃそうです。昭和47年当時に一週間で355億円の金が集まったら誰でもおかしくなりますよ。