気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮は民衆仏法ではない。




いつもありがとうございます。


さて真蹟遺文中から判断される日蓮の思想は、とても民衆仏法とは言えません。
日蓮は民衆を相手にしていません。日蓮が相手としているのは武家社会であり、鎌倉幕府です。


民衆が嘆いているからこそ国にはすべきことがある、という視点は日蓮に存在します(例えば『立正安国論』や『守護国家論』がそうですね)。しかしそれだからといって日蓮の思想を"民衆仏法"とするのは早計でしょう。


遺文からみても日蓮が民衆と交流したという形跡など少しも見出すことはできません。
つまり日蓮の思想は民衆仏法ではないのです。
題目という修行法を作ったことは事実です。しかしそれは易行道の一つとは言い得るかもしれませんが、それが直ちに民衆仏法であるとは言えないでしょう。


『一代五時図』などから明らかなように弟子たちには講義のための図を表し、天台の五時八教説から経典を判釈して教えていました。相手は弟子か武家等であり、文字が読めるものたちです。武家の尼たちには仮名書きで書いています。
日蓮が民衆と交流したとされる証拠は何一つありません。武家に対して大師講を開き、布施供養を頂いたら返礼の手紙を出すに過ぎません。


日蓮の著作は民衆に読めるものではありません。事実、創価学会の方はほとんど読めていないではありませんか。
守護国家論』とか内容をちゃんと把握しているのでしょうか。そもそも『立正安国論』は『守護国家論』を要約したものです。そういったこともきちんと知るためにはある程度の学習が必要です。ですから『立正安国論』にせよ『守護国家論』にせよ、鎌倉幕府武家を相手に書いたものであって民衆を相手になどしていないのです。
日蓮の遺文には「民衆が中心」という視点は存在しません。日蓮のスタンスは国家をどうするか、その思想的基盤をどうするかというところにあります。


創価学会が勝手に言っている「民衆の教学」とか「誰でもわかる仏法」などというものは日蓮の考え方ではありません。日蓮の思想はそもそも民衆に向いていません。日蓮が意識していたのは常に国家であり、武家社会なのです。
いいかげん、創価学会が勝手に主張している「民衆仏法」という概念を日蓮から切り離した方がよいと思います。








上部構造としての創価学会。




いつもみなさん、ありがとうございます。



創価学会の公称の世帯数は872万世帯のようですが、これがここのところ少しも増えていません。
つまり組織的には停滞していると言えます。


これは創価学会だけでなく、いわゆる昭和の新宗教教団たちも信者数を減らしています。
PL教団も信者数は半減したようですし、PL学園の野球部が廃部になったこともご記憶にあるでしょう。
立正佼成会霊友会も教団の信仰を次の世代に継承することの難しさに直面しています。


その中でも創価学会は信仰を若い次の世代に継承させることに比較的成功してきた団体です。その団体が今や青年層を獲得することの難しさと未来部の実質的壊滅という事態に直面しているわけです。



以前、書いたように私は、創価学会という存在自体が昭和の高度経済成長の時代に現れた一つの社会的運動だったと考えています。

「歴史的役割の終わり」



カール・マルクスの『経済学批判』の序文には「上部構造と下部構造」の考え方がみられます。
これは思想や精神性、政治状況、文化といった社会の「上部構造」は、経済や生産諸関係といった社会の「下部構造」から規定されるということです。
つまりその時代の思考や精神性とか流行とかいうものには一つのパラダイムが存在していて、その前提には経済的な生産諸関係が深く存在しているということになります。
ですから生産諸関係が変化していくにつれて社会の「上部構造」は必然的に変わらざるを得ないとマルクスは考えているわけです。


そう考えた時に、昭和の高度経済成長の中で生まれた運動としての創価学会は、もはや前提となる「下部構造」を失っていると言えます。
教義が古臭くなるのはそういう理由ですが、信濃町の本部職員は必死に海外のSGI組織を聖教新聞紙上でアピールし、現代的な仮面をつけることに一生懸命です。


形式というのは時代に応じて変わっていくものです。
だからかつての創価学会というものは昭和の高度経済成長期に現れた思考の一つの運動であったわけで、もはやその歴史的な役割は終わっていると言ってよいでしょう。

昭和54年の辞任問題。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて昭和54年に池田会長は会長職を退くことになります。多くの活動家なら周知のことでしょう。




で、当時の本部の幹部連中は誰一人、池田氏を擁護せず「辞任すべき」としたんです。
これはどういう意味かわかりますか。
要するに池田会長に責任と問題があったんです。幹部連中もほとほと呆れてしまったんです。
池田氏は当時よく大きなことを突然語り、幹部たちからは「大風呂敷」と呼ばれていました。私の父もよく言っていましたよ。




当時の池田会長は昭和52年路線で
創価学会は在家でありながら供養を受けられる」
「宗門は儀典を行うだけの存在」
としてしまいます。
これが宗門を怒らせたんです。
そりゃ当たり前ですよね。



挙げ句の果ては勝手に御本尊を模刻して、法主も呼ばずに会長自身で開眼供養までやってしまいます。つまり宗門のメンツは丸つぶれということです。




私は思想的に在家中心の教団でいくというなら、それはそれで思想上の自由ですし、その考えは認められるべきだと思います。
ただ問題なのは、当時、創価学会日蓮正宗講中組織だったということです。
昭和52年問題で完全に宗門を批判して離れていたなら、その発言はよく理解できます。
しかし少なくとも当時は教義の決定権は宗門にあったわけで、信徒団体としてあまりに宗門をないがしろにした発言であったと言わざるを得ません。
それなら中途半端なことをしないで、当時の昭和52年に全面的に宗門とやり合えばよかったではありませんか。



つまり当時の池田会長は総本山を創価学会の儀典部扱いにしておきたかったんです。
確かに折伏を怒涛のようにやってたのは、法華講ではなく圧倒的に創価学会の方でした。日蓮正宗なんて折伏ぜんぜんできません。
だから思い上がってしまったのかなって気がします。
で、信徒団体からそんな失礼な扱いをされたら、そりゃ宗門も怒りますって(笑)。


で、大牟田の福島源次郎氏の僧侶愚弄の発言があり、池田会長の監督責任を問われたんです。
私が言いたいことは、当時の池田会長に責任があることは明らかであり、池田氏の発言に問題があったということです。福島氏の発言はあくまで導火線に過ぎません。その前に前提として池田会長の52年路線の発言と日蓮正宗からの教義逸脱があったことは決定的な事実です。
どうしても「仏教史観を語る」のような主張をしたいなら、当時から完全に宗門から離れればよかったではありませんか。
それを表面上は宗門を尊敬するような口ぶりで語ってきた。そこに問題の本質があります。



だから当時の幹部たちが呆れかえってしまったんです。これではもうどうしようもないと。
責任は明確に当時の池田会長にあります。




まあ、それは池田氏の思想的なものなので、それを宗門との微妙な関係の中で主張したかったというのはまだ理解できます。
さらなる問題は「悪侶によって攻撃された」と言い張り、あたかも自身が被害者のように語っていることです。
違います。池田会長に問題があったので辞任せざるを得なくなったのです。




昭和54年の本質は、池田会長の宗門蔑視の思想によるものです。
私は現今の形骸化した大石寺に何の共感も持ちません。ただ当時の池田会長が自ら宗門の許可なく御本尊を模刻して、会長自身で開眼供養までやったから宗門から怒られたということは筋としてわかります。当たり前でしょうね。
挙げ句の果ては「宗門じゃなくて学会に供養すべき」なんて信徒団体から軽々に言われたら、宗門としては当然怒りますって。
それを被害者であるかのように装う池田名誉会長の態度は欺瞞です。
だって「皆で仲良くやっていけ」という戸田会長の遺言があって、一生懸命幹部陣だって池田会長を守ろうとしたんですよ。
それでも開き直る池田会長の態度に幹部連中が呆れてしまったというのが事の真相です。だから誰も会長辞任に異を唱えなかったのです。
責任の全ては池田氏にあります。
池田氏が偉大な指導者であるとか、戸田城聖の唯一の弟子であるというわけのわからない幻想はもう捨てましょう。戸田氏は池田氏を後継者に指名したことなどありません。
エレベーターの中で戸田城聖から相承があったというのは小説『人間革命』の作り話です。
そもそも戸田氏に「城」の字をもらって名前をつけてもらったのは秋谷栄之助氏と渡部一郎氏です。それぞれ「秋谷城栄」と「渡部城克」という名前だったのが、池田会長が元に戻すように命じただけのことです。



池田会長の52年路線の発言に大いに問題があって、その後、創価学会山崎正友氏というとんでもない男につけこまれることになります。




追記:
山崎正友氏は最高幹部でありながら3億円の恐喝を創価学会に対して行いました。原島嵩氏が後年山崎氏と行動をともにしたのは、彼の晩節を汚す行為だったと私は考えています。
以前、このブログでも書いたように財務制度が目的も何もない金集めになるのはちょうど正本堂建立以降、昭和47年以降のことです。
結局、学会幹部もお金に狂っていったんだろうなって思います。
そりゃそうです。昭和47年当時に一週間で355億円の金が集まったら誰でもおかしくなりますよ。










末法は存在しない。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて「天台智顗の修行は"本未有善"の"末法"の衆生には役に立たない」という教義もまた現代ではもはや無効でしょうね。



そもそも"末法"という考え方が出てくるのは『大集経』です。『大集経』そのものは中国で創作された経典に過ぎず、もはや末法という考え方も否定されるべきでしょう。中村元氏も指摘していましたが、後代になればなるほど釈迦の死を創作で潤色し、永遠の像として定義づけようとした漢訳仏典は、その性質上、釈迦を永遠の存在と定義しておきたかったのかと思います。
末法」という概念もその過程で生まれてきた創作でしかないでしょう。


ですから下種益を強調する創価学会日蓮正宗の教義は、天台智顗の"末法"概念を踏襲していますので、もはや廃棄されるべき教義です。
今こそ釈迦の本来の教え、また大乗仏教運動の本質に根ざしたものとして、日蓮の再評価をしなければならないと私は考えています。
このブログで度々指摘しているように日蓮思想には限界があり、現代では無効な教義も多く、使い方を誤ると非常に危険なことは歴史が証明している通りです。


いつまでも教団側の本部職員とか本山の聖職者側が何かしてくれるだろうと思っていても何も出てきませんし(笑)、信徒の目を欺いてお茶を濁すのが関の山ですから、一人一人の信徒がそれについて考えて実際に実践しなければならないでしょう。


創価ルネサンス」なんて言ってましたが(今はもはや死語・笑)、本来のルネサンスとは人間復興であり、あらゆる権威から離れて自分たちで信仰を確立するということがその本義だったのではありませんか。


マックス・ヴェーバーによれば教団が官僚化し、形骸化する事態は回避できません。とすれば官僚化する教団職員も問題ですが、同時にそれらを黙認してきた信徒一人一人もまたその責任を回避できないのです。


一人一人が自身の責任に立ち、教義を確立し、信仰を継承していくことが現在求められているのだと私は思います。



広目天王と増長天王のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。


以前、大石寺客殿安置の御座替本尊(日興筆)と奉安堂安置の戒壇本尊とで相貌の相違をブログで書きました。


「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」


この中で指摘したことですが、実は四天王のうち、下部に書かれる「広目天王」と「増長天王」について、日興筆の御座替本尊では「大毘楼勒叉天王」(増長天の梵名)「大毘楼博叉天王」(広目天の梵名)と書かれています。

和名ではなく梵名で書かれているのです。


実は日蓮自筆の本尊では弘安2年10月の前と後でこの四天王の書き方が変わるんです。
建治2年〜弘安2年の初めまで日蓮は四天王について「大毘楼勒叉天王」「大毘楼博叉天王」と梵名で書くことが多いのです(ちなみに建治2年の真筆本尊では持国天についても「大提頭頼咤天王」と梵名で書かれています)


例えば弘安2年4月日弁授与本尊(千葉妙興寺蔵)を見てみましょう。


見てわかる通り、ここでは「大毘楼勒叉天王」「大毘楼博叉天王」です。
弘安2年の7月頃までは両方の書記法が混在していますが、比較的梵名で書かれることが多いんですね。


ところが弘安2年10月の日徳授与本尊(埼玉・新曽妙顕寺蔵)以降から「大広目天王」と「大増長天王」に変わってきます。


つまり弘安2年の10月から筆法として梵名ではなく和名で四天王を全て書くようになるんですね。


ところで、大石寺の客殿安置、日興書写による御座替本尊が仮に戒壇本尊を手本にして書写したとするなら、なぜ日興がわざわざ広目天増長天を梵名に戻したのか不自然になります。
そもそも戒壇本尊を手本にするなら梵名ではなく和名で書くべきですし、加えて弘安2年10月以降の日蓮筆法は和名で書かれているはずです。


このことから考えても、日興が御座替本尊を書写した正応3年の時点で戒壇本尊は存在しておらず、日興は建治期から弘安2年前半にかけての日蓮曼荼羅の筆法にならって書写を行なったと考える方が推察としては自然です。



追記:
日蓮曼荼羅筆法では「王」には点を打ち「玉」とすることが一般的です。ですから本来なら「広目天王」ではなく「広目天玉」と書くべきなのですが、上記の投稿では一般的な記述にならって「広目天王」「増長天王」と書いたことをご承知ください。
また日蓮の用語で言えば「曼荼羅」ではなく「漫荼羅」を使うのが正しいのですが、当ブログでは通称の「曼荼羅」と表記しています。



「二十余年」と「三十余年」


いつもみなさん、ありがとうございます。


以前、ブログで戒壇本尊の讃文「二千二百二十余年」が、『御本尊七箇相承』の「二千二百三十余年」と相違していることをブログでも書きました。


戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」



ところが、平成29年3月16日付の『慧妙』には昭和56年の阿部日顕氏の次の発言が掲載されています。


「けれども、三十余年ということの中には、数字に執らわれるべきものではなく、二十余年と三十余年の両意が、付属の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境涯の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。」

だそうです。
意味不明です(笑)。
こんなんで世間から評価されると本当に日蓮正宗宗門は考えていらっしゃるのでしょうか。
それなら大石寺60世阿部日開氏が昭和3年の御本尊書写の際に「二千二百二十余年」と書いてしまって、結果翌年に謝罪文を法主本人が書くはめになってしまったのはどうしてなんでしょうね。


「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」


法主の御本尊書写の際に「二十余年」と「三十余年」の両意が収まっているとするなら、なぜ昭和4年2月18日に小笠原慈聞氏は時の法主の阿部日開氏を批判し、謝罪文まで法主が書く事態になってしまったんでしょうか。
では阿部日開氏が「二千二百二十余年」と書写したことは正しかったのでしょうか?
それならそれを批判した小笠原慈聞氏は間違っていたのでしょうか?
要するにそういう過去への反省・総括をする姿勢が、日蓮正宗宗門には全くみられないことが問題の本質なのではありませんか(笑)。
過去を反省しないところは創価学会とそっくりです。
阿部日開氏は謝罪文中でこう書いてますよ。


「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上 
六十世 日開 花押」


ですからいい加減に、日蓮正宗宗門もきちんと自分たちの過去を反省して来なかったということを認めた方がよいと思うんですよ。
そんな今さら後付けのように「二十余年と三十余年には甚深の意義が」なんて言われても、過去の阿部日開氏の謝罪の件があるんですから、なんら説得力を有しないと思います。


おそらく昭和56年の阿部日顕氏の発言は、父である日開氏の名誉回復の意味もあったと思うんですね。
それなら時の法主である日開氏を批判した小笠原氏は批判されて然るべきなのではないですかね。それなら小笠原慈聞氏は「表面層にのみとらわれた偏見」で時の法主を批判した"大謗法"の人なのではありませんか?(笑)


もっと言ってしまうと『御本尊七箇相承』には次のように書いてありますよ。

「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」

つまり「三十余年の間」を「略し奉ること」は「大僻見不相伝の至極なり」なんですよ(笑)。『七箇相承』にここまで書いてあるのに「三十余年」は変えても問題はないんですかね?(笑)
間違っているのはどっちなんですかね?
『七箇相承』が間違いなんですかね? それとも「二十余年」と書かれた戒壇本尊の方が間違いなんですかね?
もはや笑うしかないですね☆



追記:
で、問題はこれだけではないんですけどね。
『御本尊七箇相承』では「日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給はざらん」としていますが、元弘3年10月13日の日目書写本尊(柳目妙教寺)および正中3年の日目書写本尊(小泉久遠寺)では「日蓮聖人」となっていますけど、これはどういうことなんでしょうかね?
要するに日目在世中に『御本尊七箇相承』は存在しなかったんじゃないんですかね? 
まさかまたお得意の「両方に甚深の意義がある」なんて言うんですかね(笑)。
要するに「日蓮御判」の件も、「二十余年」の件も、「若悩乱者頭破七分」の件も、御座替本尊との相貌の相違の件も、対外的になんら説得力のある回答もせず来てしまった、日蓮正宗宗門の姿勢に問題の本質があると思うんですけどね。











ブッダ最後の旅より。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて歴史上の釈迦、ゴータマ・シッダールタの史実に最も近い経典はスッタニパータでしょう。後代になればなるほど釈迦は神格化され、様々な潤色が物語に付随してきます。
幸い、大パーリ・ニッバーナ経(大般涅槃経)は中村元氏の訳で岩波文庫で読むことができます。
今回はこの岩波文庫版の『ブッダ最後の旅』(大パーリ・ニッバーナ経)から釈迦の最後の教えを少し考えてみたいと思います。


「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?  わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような握拳は、存在しない。」
(『ブッダ最後の旅』中村元訳、64ページ、岩波文庫


中村元氏の解説によれば、バラモンには気に入った弟子のみに教える秘密の伝授があるけれど、仏教にはそのような秘密など存在しないということです。
つまり釈迦の教えに従うなら、師匠から弟子に秘密裏に伝授される特別な教えなどというものは本来の仏教の教えではないということになります。特別な秘密など何もないのです。


続く文章で、釈迦は自分が教団の指導者であることを自ら否定します。頼るべきものはめいめいの自己であり、それはまた普遍的なダルマ(法)に合致すべきであるということです。



「アーナンダよ、わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?
アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、ーー誰でも学ぼうと望む人々はーー。」
(同66〜67ページ)



釈迦の臨終の際の最後の指導は

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」
(同168ページ)

というものでした。
中村元氏の解説によれば「仏教の要決は、無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる」としています。中村元氏の訳注から引用してみましょう。


「〈無常〉の教えは、釈尊が老いて死んだという事実によってなまなましく印象づけられる。それがまた経典作者の意図であった。ところが年代の経過とともにゴータマ・ブッダは仏として神格化され、仏の出現は稀であるとか、仏の身体がみごとであるとか神学的思弁が諸異訳のうちに付加されることになった。」
(同332ページ)



仏の教えには師匠から弟子に託されるような秘密は何もありません。
一切の事象は過ぎ去るものであり、だからこそ自らをたよりとして、他人をたよりとせずに生きることこそが釈迦の本意なのでしょう。





追記:
「島」という訳語について、中村元氏は他の諸訳から"attadipa"という語を「灯明」とせず「島」と訳しています。もちろん漢訳の『中阿含経』第34巻「世間経」には「当自作燈明」とあり、『長阿含経』第2巻「遊行経」には「自熾然熾然於法」とありますが、中村氏は「輪廻はしばしば大海に例えられ、ニルヴァーナは島に例えられる」ことから「島」という訳語を採用しています。