気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

転輪聖王のこと。





いつもありがとうございます。
今日のテーマは「転輪聖王」(てんりんじょうおう)についてです。



転輪聖王」って知ってます?
転輪聖王とは武力を用いることなく正法をもって全世界を統治する理想の王のことです。日蓮曼荼羅本尊にも書かれることも多いです(現在の創価学会が授与している日寛書写本尊に転輪聖王は書かれていません)。


全部で4種類ありまして、
鉄輪聖王(てつりんじょうおう)
銅輪聖王(どうりんじょうおう)
銀輪聖王(ぎんりんじょうおう)
金輪聖王(こんりんじょうおう)
の4人がいるとされています。


で、実は日蓮正宗にはもともと広宣流布が達成される時に、この転輪聖王のうち最高位にある金輪聖王が出現するという変な言い伝えがあるんですよ(笑)。
例えば昭和48年6月号『大日蓮』での細井日達氏の説法ではこう述べられています。


「この人間の中で、一番最高の人というのは、転輪聖王だと。転輪聖王がこの世に出現する時は、大海に優曇華の華が咲く。また木が生えて、花には立派な実がなる。
で、この一番転輪聖王の上の人を金輪聖王と言い、金銀銅鉄という四種類の、四種類と言っては申し訳ないけれども、四つの転輪聖王が、鉄輪聖王・銅輪聖王・銀輪聖王・金輪聖王がいる。
で、広宣流布の時は、この金輪聖王が出現するのである。だから広宣流布の時は、この金輪聖王が出現して、世の中は平和になる。すべての人をこの平和に導くんですから、いかなることも自由自在である。妨害するものも信服し、自らは十善を行じて大果報を得ておる。
そこで妙法蓮華経はいつ広宣流布するんだという問題が起きる。最後の本当の広宣流布の時はこの金輪聖王の出現にある。その時に戒壇の本尊を中心として、みな世界平和を祈り、共に世界平和になって、お互いに我此土安穏、この土は常に安穏であっていただきたい。それが法華経の信心である。我々の願いである。妙法流布の根源である。広宣流布のその時の王様はどういう王様なのかそれは分らんけれども、名前は金輪聖王という資格に於て出現しなければならない。」
細井日達・説法「法蓮抄」、『大日蓮』昭和48年6月号)


ところで、この日蓮正宗の謎の教義なんですが(笑)、創価学会もこれと同じ考え方に立つようです。少なくとも90年代くらいまでは創価学会もこの「転輪聖王」の考え方をとっていました。池田氏のスピーチから引用しましょう。


「正義によって世界を平和と繁栄に導くーーこれが仏法の目的である。
それをなしゆく理想の指導者像を『転輪聖王』と説く。(中略)
この転輪聖王のなかでも最高の王者を金輪聖王という。
金輪聖王の影響力は、東西南北、全世界に及ぶ。
現代的に言えば、武力を使わない。権力などのハード・パワーを用いない。人々を圧迫しない。
『人格の力』『哲学の力』『芸術・文化の力』というソフト・パワーで、信服と尊敬を勝ち取っていくのである。
初代会長・牧口先生が提唱された『人道的競争』の理念も、その精神は同じである。
しかも、他の銀輪聖王などは、自分のほうから相手の国へ行く。
これに対し、金輪聖王は、自分が行かなくても、世界中から慕われ、人々が集まってくるという王なのである。
光栄にも、今、創価学会は、世界の最高峰の知性が千客万来である。」
池田大作SGI総会・本部幹部会・中部総会でのスピーチ、1998年11月17日、聖教新聞


池田氏はここで、創価学会そのものこそが「金輪聖王」なのだとしています。
かつて原理主義的な一部の最高幹部たちは「池田先生こそ『金輪聖王』なのだ」と主張していました。今もそうなんでしょうか。



まあ、どんな教義を信じても個人の自由ですけど、私にはこんなお伽話みたいな教義はどうでもいいです(笑)。
百歩譲って「池田先生が金輪聖王だ」として、果たして池田氏の登場によって世界平和って進んだんですかね(笑)。
池田氏が金輪聖王なら、細井日達氏の説法によれば「金輪聖王の出現」は「広宣流布の完璧の時」なのだそうですけど。
今、広宣流布って「完璧」ですかね。
地域組織の青年部員など絶滅危惧されている感じが私にはするんですけどね。



日蓮の教義でないもの。





いつもお読み頂き、みなさん、ありがとうございます。


以下にいろいろ書きますけど、これらは日蓮の教義ではありません。
創価学会日蓮正宗の方はこれらを日蓮の教義だと勝手に思ってますけど、勝手に言ってるだけです(笑)。ぜーんぶ日蓮の教義でもなんでもありません。




◯十四誹謗
以前にこのブログで書きましたが、これは日蓮の教義ではありません。中国天台宗第6祖妙楽大師湛然が作った教義です。湛然の『法華文句記』に出てきます。


◯九識論
もともとは唯識思想の世親から生まれた考えです。本来は八識の阿頼耶識までしかなかったものに、天台宗華厳宗が九識の阿摩羅識を加えたものです。九識論を深めたい方は世親から『浄土論』や念仏思想に進むのが自然かと思います。


◯即身成仏
弘法大師空海によって作られた造語です。空海の『即身成仏義』で展開されました。ですから即身成仏の義を「盗み取った」のは実は真言ではなくて、実際には天台宗日蓮の方だと思います。


◯無作三身
最澄の『守護国界章』に出てくる概念です。ただしこれを「凡夫即仏」という本覚思想の意義で使われていたという観点には異論があります(元来、最澄は『守護国界章』で法相宗の徳一と法論をしていまして、その中で使われた概念です)。これを凡夫即仏という考え方で使われるようになったのは後の天台宗です。ちなみに日蓮の真蹟遺文には1箇所も使われていませんので、本来日蓮の思想とは言えません。


言うまでもなく真言の考え方です。ちなみに日蓮は「曼荼羅」ではなく「漫荼羅」という当て字を使っていますが、慣例にしたがって「曼荼羅」と表記しておきます。


◯謗法
本来は空海の『秘蔵宝鑰』と円珍の『授決集』で使われた術後です。日蓮は「謗法」について、空海円珍の概念と、無量寿経における「誹謗正法」という文の解釈を組み合わせて独自の考え方を編み出したと推測されます。


◯十界
天台宗の概念であり、体系的には中国天台宗の志磐によって書かれた『仏祖統記』に出てくる術語です。日蓮のオリジナルの思想でも何でもありません。


◯半眼半口
亡くなる時の成仏の相として言われますが、この由来が私にはよくわかりません。これは浄土宗でも言われることですし、別に日蓮特有の教義でもないんですけどね。








日道『三師御伝土代』を読む。





大石寺第4世の日道(1283〜1341)によって書かれた『三師御伝土代』という文献があることはよく知られています。この日道自身による真蹟も大石寺に現存しています。

これは日蓮、日興、日目の三師について書かれた最古の文献の一つでして(元弘3年/正慶2年・1333年。この年は日興と日目の没年)、特に日蓮自身の誕生日を「貞応元年2月16日」と記録している、日蓮門下中最古の文書です。


『三師御伝土代』の冒頭はこう始まります。

日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」
(『富士宗学要集』第5巻宗史部1ページ)

日目より相承を受けたとされる日道ですが、ここで彼は日蓮の「本地」を「上行菩薩の後身」としています。
つまり日道の頃にはまだ日蓮を本仏とする説は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


少し読み進めて後半に行きましょう。


「文永十一年きのへいぬ十月蒙古国寄す合戦。
同十二年きのとのい正月下旬蒙古国人三人鎌倉へ下ル後又五人下ル。
同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頸斬れ畢んぬ。
建治元年きのとのい六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。
弘安元年つちのへとら建治四年二月二十九日改元
弘安五年みつのへうま十月十三日辰の時聖人御遷化、」
(同6ページ)


日蓮正宗にとって最も大事な弘安2年10月12日、戒壇本尊建立の記述は存在しません。
ここから考えるに、日道の時代(1283年〜1341年)にはまだ「弘安2年戒壇本尊」は存在しなかったと考えるのが自然でしょう。


もう少し読み進んでみましょう。


「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ソ三身即一の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」
(同12ページ)


戒壇本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですから、ここでも記述が相違しています。
ちょっと整理すると

戒壇本尊:仏滅後二千二百二十余年
七箇相承:仏滅度後二千二百三十余年
御伝土代:仏滅後二千二百三十余年

一貫しているとは言い難いですね。
また「三身即一」の仏はここでは「日蓮」ではなく「三身即一の釈尊」とされていますから、日道の考えでは「本仏」は「釈迦」であることがここからわかります。

ここから推察できることは以下の点になります。


①日道の時代(1283年〜1341年)には、日蓮の本地を「上行菩薩」としており、まだ日蓮を本仏とする思想は存在していなかった。

②日道の時代(1283年〜1341年)には、弘安2年造立とされる戒壇本尊は存在していなかった。


以上2点が自然な推察であると考えます。







阿部日開氏の「二千二百二十余年」。






いつもみなさん、ありがとうございます。



御本尊の表面に書かれている讃文について『御本尊七箇相承』には「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべしとされているにもかかわらず、戒壇本尊には「仏滅後二千二百二十余年」と書かれています。この日蓮正宗の教義矛盾については当ブログで繰り返し指摘してきたところです。

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

で、なんでこのことを繰り返し私がここで書くかというと、実際に日蓮正宗法主で『御本尊七箇相承』に従わず、戒壇本尊を手本として「二千二百二十余年」と書いて問題になってしまった方がいるからです。
その人物とは大石寺60世阿部日開さん(67世・阿部日顕さんの実父)です。



日開氏は昭和3年法主への登座直後に本尊書写で「二千二百三十余年」と書くべきところを「二千二百二十余年」と書いてしまいました。
これについて宗内は紛糾し、日開氏は小笠原慈聞氏に詰め寄られて「漫然と書写して誤った」といったん謝罪をします。
ところが小笠原慈聞氏らは昭和4年2月18日朝、阿部日開氏が六壷にて勤行を終えるのを待ち伏せして、この件についてさらに詰問するんですね。まあ小笠原氏も宗内の僧侶ではありますが、時の法主の日開さんをそこまで攻めるかと思うと驚きを禁じ得ませんね。
阿部日開さんはここで過ちを認め、訂正文を書くはめになります。



「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上 
六十世 日開 花押」



で、ここからは私の意見ですが、これは誤写というより、阿部日開さんの見解であったと思うんですよね。
そもそもこの当ブログで紹介しているように、戒壇本尊には「二千二百二十余年」と書かれています。実際『日女御前御返事』でも「二千二百二十余年」とされていますし(御書全集1244ページ)、日蓮自身の真蹟本尊中も「二十余年」と「三十余年」の二つがあることは周知の事実です。また日常門流には「二千二百二十余年」とする相伝も残されています。
ですから阿部日開さんはここであえて戒壇本尊にきちんと習って「二千二百二十余年」と書写したのだと私は考えています。



法主日蓮の内証を法水写瓶で受け継いだものであるとするなら、小笠原慈聞氏が時の法主に意見することは批判されて然るべきです。
しかし事実は異なり、小笠原氏の批判を受け入れて法主が謝罪をする状況に陥ったのです。ここからわかるように法主無謬論というのはあり得ない論です。法主もまた一人の人間であり、批判されることもあり得るし、実際この阿部日開さんのような事例も過去に存在したということです。
御本尊書写の問題、そして戒壇本尊の相貌と『御本尊七箇相承』との相違点というのは、日蓮正宗が抱える決定的な矛盾なのであって、本尊についての教義さえ整理できずに広宣流布を語るなど噴飯ものであると私は思います。この問題を早めになんとかしないと、また同様の問題に日蓮正宗はぶつかりかねないでしょうね。






ここが変だよ。創価学会の選挙。




いつも閲覧いただき、ありがとうございます。


私はもともと創価学会のバリバリの活動家でした。
選挙戦ではそれこそ大変な数のF票やZ確約を取ってきました。地区の婦人部からは喜ばれたことが嬉しかったんですね。
そんな私でも創価学会の選挙支援に「なんだかなぁ」と思っていたことがあります。
もう非活になりましたし、前から思っていたことを書いてみますね。
「ここが変だよ、創価学会の選挙。」



1、投票日は雨を祈る(笑)。

これ、けっこう本当にあることです。創価学会の活動家は期日前の戦いを散々やった後、投票日当日は「雨が降りますように!」って祈ります。
なんでかわかりますか?
実はデータがあって、無党派層は雨が降ると選挙の出足が鈍ることがわかっているんです。公明党の票は組織票ですから、無党派層にたくさん投票されると選挙では相対的に不利になるのです。
そりゃね、選挙に勝つってことも大事かもしれないけど、無党派層が投票に行かなくなるように「雨が降れ」と祈るってどーゆーことなんですかね?(笑)


2、片っ端から電話する。

名簿を持ってきて片っ端から電話して友人票を取っていく、いわゆる"電話作戦"です。女子部とかでも唱題会やりながら、裏で携帯で散々電話していた会合を見たことがあります。私も男子部時代さんざんやりましたから。
公示期間前は「投票をお願いします」と言うことができませんから「◯◯候補への応援をお願いします」という文言を決めて、あとは手当たり次第に電話するのです。
もちろん選挙支援というのは権利であり、自由ですけど、なんら公明党の政策を知りもせずに片っ端から電話していくというのはいかがなものかなぁとは思います。


3、共産党は"仏敵"である(笑)

ホンマかいなと思いますが、本気で創価学会員は共産党を「仏敵」と考えています。
創価学会というところは、もともとの日蓮正宗譲りで「敵を外部に作らないと戦えない」みたいなところがあります。
男子部の広宣部で共産党のイメージダウンをはかる謀略ビラをばら撒いたことがあります。もちろん婦人部には言えません。
表向きは共産党批判の内容の本を宣伝するチラシという体裁をとっていましたが、実質は共産党を攻撃するものでした。
今はもう民進党も仏敵なのかもしれませんね。私にはもうどーでもよいことですが。
挙げ句の果ては仏壇前に「共産党撲滅!」とか書いて祈り出す始末(笑)。選挙区で対立候補が出た場合には「共産党◯◯候補落選! 撲滅!」くらい書いて祈ってるなんてけっこう普通にありました。


4、見知らぬ他人にも選挙を頼む

これは本当に活動家だけですけど、のべつ幕なしというか、見境なく誰でも選挙を頼み出す人がいます。
タクシーに乗ったらタクシーの運転手さんに公明党をお願いする。八百屋で野菜を買ったらお店に公明党をお願いする。もうなんでもありです(笑)。
こんな逸話を会合で聞きました。大阪の学会員のおばちゃんたちが都議選の応援に来た時、誰も友人が都内にいないのにとりあえずやって来て、コンビニに入って観光で来たと嘘ついて写真をお願いして皆で写真撮ったら、
「写真を送りたいから住所教えてね」
そう言いだして、知り合いになり、公明党をお願いしに来たとか(笑)。ウソみたいな本当の逸話がたくさんあります。あまりに非常識が過ぎたのか当時の秋谷会長から「知り合いがいない方は無理して都議選のお願いに行かないように」という指示が地域まで下りて来たことがあります。
私の友人でも池袋の風俗に行って風俗嬢に選挙を頼んだとか(笑)、そんな話、実はたくさんありました。

『御本尊七箇相承』から考える。




『御本尊七箇相承』では御本尊の書き方についてどのように記されているかを簡単にまとめてみました。


1、十界互具として以下が挙げられる。
釈迦多宝、上行等の四菩薩、舎利弗、大梵天王、転輪聖王阿修羅王、龍女龍王十羅刹女提婆達多。ただしここでは説明のみで御本尊に「書くべし」とはされていない。

2、点を長く引くこと。

3、天王の王の字は必ず点を打って「玉」とすること。

4、梵字は不動と愛染に限ること。

5、日蓮御判と必ず書くこと。

6、上行・無辺行と持国天の間、浄行・安立行と毘沙門天との間には「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」と書くこと。

7、「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なり」と日蓮が書いたままに書写することこそが御本尊書写であること。

まあ、だいたいこんな感じです。



ところが、まあこの通りに書いていない御本尊なんて山ほどあるんですよ、はい(笑)。
一番厄介なのは弘安2年戒壇本尊です。簡単に上記の7点についてまとめてみますね。

弘安2年戒壇本尊
1、◯  十界は書いてある。
2、◯  点は長く引かれている。
3、◯  王の点は打たれている。
4、◯  梵字で書いてあるのは不動愛染のみ。
5、◯  日蓮と花押が書かれている。
6、×    書かれていない。
7、×    「仏滅後二千二百二十余年」


根本としなければいけない戒壇本尊がまず『七箇相承』と相違しています。


次に客殿安置の日興による御座替本尊(正応3年10月13日)はどうでしょうか。

御座替本尊
1、△  提婆達多のみ抜けている。
2、◯  点は引かれている。
3、◯  王の点は打たれている。
4、◯  梵字で書いてあるのは不動愛染のみ。
5、◯  日蓮御判と書かれている。
6、◯  二文とも書かれている。
7、◯  「仏滅度後二千二百三十余年」


御座替本尊は提婆達多が勧請されていないことを除けば、ほぼ『七箇相承』の指示通りに書写されています。提婆達多等の十界の衆生について『七箇相承』では説明があるのみで必ず書くべきとは書かれていません。
したがって『七箇相承』を真蹟と判断する日蓮正宗の教義で考えれば、最大の問題点は戒壇本尊そのものになります。


次に正中3年書写の日目による本尊(小泉久遠寺蔵)を見てみます。


正中3年日目書写本尊
1、×   舎利弗阿修羅王龍王提婆達多が抜けている。
2、◯  点は引かれている。
3、◯  王の点は打たれている。
4、◯  梵字で書いてあるのは不動愛染のみ。
5、×    「日蓮聖人」と書かれている。
6、×    書かれていない。
7、×    書かれていない。


ちなみにこの日目書写本尊は日興在世中の書写本尊ですが、『七箇相承』とほとんど一致しません。そもそも日興が「日蓮御判」と書いているのに「日蓮聖人」としているのは大きな問題でしょう。しかも『七箇相承』でそのままきちんと書くこととされている「仏滅度後二千二百三十余年」の一文さえ全く書かれていません。


以上の観点から以下のように考えられます。
①『七箇相承』そのものがそもそも後世の偽書である。
②『七箇相承』が真蹟であるとするなら、弘安2年戒壇本尊が後世の偽作である。
③『七箇相承』が真蹟であるとするなら、日目は先師違背になる。
④『七箇相承』が真蹟であるとするなら、正中3年の日目書写本尊を許した日興は『七箇相承』に違背することになる。


論理的に考えても①から④のどれかを取るしかないと思いますね。



追記:1
この『御本尊七箇相承』の「七箇」という言葉って、天台口伝法門の「七箇口伝」にそっくりです。
日蓮正宗の教義そのものもたとえば「日蓮=本仏」「釈迦=迹仏」一つとってみても、天台恵心流口伝法門で「天台=本仏」「釈迦=迹仏」とするところがそっくりです。
ですからやっぱり現今の日寛教学って、結局天台口伝法門のパクリなんだと思いますよ。天台宗の方に失礼な話です。


追記:2
まあ日蓮正宗の方はこういうことを言われると「それは御法主上人の内証の問題」だとか言い出すんですよ(笑)。
まあね、「内証」なんて言われちゃったら全部説明がつくわけです。御本尊の一文字一文字も全部法主の内証から書かれているもので、表面の字面に囚われてはいけないってことでしょう。
ただそうなると、日蓮正宗が対外的に教義を広めていくとするなら、果たしてその「内証」という説明は公式なものとして誠意ある説明になり得るのかというのが率直な疑問です。
やはり矛盾は矛盾として認めた方がいいと思うんですよね。それが誠意ある信仰者の態度でしょうし、そうでなければ教団を仏様扱いにした創価学会の無反省ぶりとなんら変わるところがありません。
やはり日蓮正宗方って「確かに戒壇本尊と七箇相承は矛盾しています」とか「七箇相承は偽作かもしれませんね」とか、そういう誠意ある総括ができないのかもしれません。対論で負けることが悪いのではなくて、教義として矛盾するならそこに真摯に向き合うことが真の信仰者の態度かと考えます。


遊説隊。





地方議会選挙では各地域組織で"遊説隊"なるものが結成されます。
昔はこの"遊説隊"こそが新しい青年部の人材輩出の現場でした。この遊説隊をはずすとあとは青年平和文化祭くらいしかないんです。


遊説隊の最大のポイントは期間限定ですが、男子部と女子部が合同で活躍していくところです。創価学会の数少ない男女の出会いの場ともなっていましたっけ。


ただ内容は大変でして、公示期間に仕事はほぼぶん投げ状態で候補者について選挙戦を戦わないといけません。
公示期間、遊説隊の男女青年部は休みを取って選挙戦を戦うのも普通でした。今考えれば異常なことなんですが、創価学会内の常識は世間の非常識なんですね。


朝起きて事務所に行き、勤行をして、候補者と一緒に遊説カーに乗り込んで戦うというだけのことなんですが、遊説隊は非常な使命感を持ってやってましたね。


かつてはこの遊説隊、組織の次代の若い人材を輩出する貴重な場でした。私も男子部の部長次代に自分の部から遊説隊の隊長を輩出し、誇らしげな気持ちになったことがあります。その後、後輩は私のあとを継いで部長になりました。


ところが今やこの遊説隊さえ、青年部だけでは成り立たなくなってきているようです。
地域組織にもよりますが、特に選挙のウグイス嬢たる女子部が集まらないのです。
だいたい本部で活動家が1名いるかいないかの状況になってますから、若い女子部で遊説隊に志願してくれるメンバーなんてもう絶滅危惧種なんですね(笑)。
仕方ないので、婦人部がウグイス嬢に駆り出され、結果的に男子部も元気をなくして、ますます遊説隊には出なくなるという(笑)。
そろそろ遊説隊も青年部ではなくて、地域の副役職の婦人部と壮年ブロック5勇士あたりで結成され出すんじゃないでしょうかね。



追記:
都議選モードで戦っている創価学会員に電話や家庭訪問で出くわすことも多くなっている時期です。学会の選挙攻撃をかわす方法をいくつか書いておきます(笑)。

1、最初から一切拒否。ただししつこいのもいます。
2、「ちゃんと投票するよ」と言っておく。
3、「期日前に行きますよ」と言っておく。
4、「期日前に行きますよ」と言っておいて、公示期間になったら「投票終わったよ」と伝えておく。


4番なら学会員は泣いて喜びます(笑)。
誰に投票するかなんて自由ですから、とりあえず学会員には「選挙行ったよ」「投票終わったよ」って早めに伝えてしまった方がその後しつこく来られないで済むと思います。
要はしつこく学会員から家庭訪問される理由は、「その人が本当に選挙に行くのか行かないのかわからず確認に来ているから」なのです。