いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこんなブログを書いているためか、あちこちから批判されることもしばしばです。もちろん生産的な批判や、私の間違い等を正してくださる賢明な読者もおりまして、そのようなご意見やご批判はありがたく思っています。
例えばよくある批判に「お前は文底の法門を知らない」「日蓮大聖人の法門には文底の法門があるのだ」「お前は文上読みに過ぎない」というものがあります。
批判をされた方には申し訳ないのですが、日蓮の遺文から見れば「文底」は「法華経」の文の底という意味でしか使われていません。日蓮は自分の説いた法門や御書・遺文に対して「文上」「文底」があるなどと述べたことは一度もないのです。したがって日蓮の法門に「文上」や「文底」があるとする考えは日蓮から見れば誤りなのです。
具体的に日蓮遺文から見てみましょう。「文の底」という表現は『開目抄』に存在します。ここには「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(創価学会旧版御書全集189ページ)と述べられています。ここでは明確に「寿量品の文の底」と書かれています。したがって「文の底」とは法華経如来寿量品の文の底なのであって、他の「文の底」など一切書かれていません。
真蹟不存の遺文では『本因妙抄』に2カ所「文の底」という用例が存在するのみです(同871、877ページ)。しかしながらここでも「寿量品の文の底」(871ページ)と書かれておりまして「日蓮の法門に文底がある」などという意味にとることはできません。しかも同抄は本文で最澄の帰国の年代に矛盾が存在していますので、偽作されたものであることはほぼ間違いないと推察されます。
「『本因妙抄』本文の改竄」
これは大石寺26世堅樹院日寛の教学なのであって、日寛は『三重秘伝抄』において日蓮『開目抄』の「文の底」という表現を大石寺だけに伝わる「三重秘伝」として「権実相対」「本迹相対」「種脱相対」として展開し、その議論の中で「文上」「文底」という概念があたかも日蓮自身の概念であるかのように教義形成されただけのことなのです。
要約すると「文の底」は日蓮真蹟遺文では『開目抄』の1か所のみ言及され「如来寿量品の文の底に沈められた一念三千」という意味で使われており、日蓮は自身の法門に「文の底」の法門があるなどと述べたことはないということです。
そして「文上」や「文底」という表現は、日蓮が一度も使ったことがない表現であり、後世に作られた概念でしかないということになります。